シーボーム・ラウントリー
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シーボーム・ラウントリー
誕生 (1871-07-07)
1871年7月7日
イングランド ヨーク
死没1954年10月7日(1954-10-07)(83歳)
職業実業家、社会調査家、作家
国籍 イギリス
活動期間1901年 ? 1954年
ウィキポータル 文学
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ベンジャミン・シーボーム・ラウントリー(Benjamin Seebohm Rowntree CH1871年7月7日 ? 1954年10月7日)は、イングランド社会調査家、社会改革家実業家。特に、1899年1935年1951年の三次にわたって行われたヨークにおける調査で知られている。

最初に行われたヨーク調査では、市内の貧困層の生活状態について、広範な調査が行われ、調査者が労働者階級の家庭をしらみつぶしに訪れる全数調査が取り組まれた。貧困は貧困者自身に責任がある、という伝統的な見解に対して、ラウントリーは、貧困は低い賃金の帰結であると主張した。

ラウントリーの調査は、20世紀前半の日本にもよく紹介されていたが、姓の表記には揺れがあり、1916年に発表され日本の思想界に多大な影響を与えた河上肇の評論「貧乏物語」では、「有名なるローンツリー氏の貧民調査」などと「ローンツリー」と表記され[1]1921年に最初の日本語訳書として『生活費の研究』が出版された際には「ラウンツリー」という表記が用いられた[2]
生涯

シーボーム・ラウントリーは、クエーカーで、食料雑貨商からココアチョコレートの製造業者として成功した父ジョセフ・ラウントリーと、母エマ・アントワネット・シーボーム (Emma Antoinette Seebohm) の次男としてヨークに生まれた。幼い時には家庭内で教育を受け、10歳からブーサム校(英語版)に学んだ[3][4]。ラウントリーは、5学期にわたりマンチェスターのオーエンズ・カレッジ(Owen's College,:マンチェスター大学の前身)で学んだ後、1889年に家業(後のRowntree社)に入り、同社の最初の化学部門の基礎作りをした[5]1897年に事業が有限責任会社化された際には取締役となり、 1923年から1941年まで、会長を務めた。実業家としては、高能率を追求してその果実で高賃金を実現すべく努め、企業内福祉の充実にも取り組んだとされる[6]

ラウントリーは、1897年に技術者エドウィン・ポッター (Edwin Potter) の娘リディア・ポッター(Lydia Potter、1868/9年 ? 1944年)と結婚し、4男1女をもうけた。妻に先立たれた後、ラウントリーは、ハイ・ウィカムにある、かつてディズレーリの屋敷であったヒューエンデン・マナー(英語版)の一翼を住まいとし、そこで心臓発作のために死去した[7]
業績
第一次ヨーク調査(1899年)都市における貧困:ダブリンのスラム居住者たち。1901年ころ撮影。

ラウントリーが、ヨークの貧困を調査研究したのは、父であるジョセフ・ラウントリーの業績や、ロンドンで調査を行なったチャールス・ブースの業績に影響を受けてのことであった。ラウントリーは、ヨークの貧困層の生活状態について、全ての労働者階級の世帯を対象として訪問する、広範な全数調査を実施した。その結果、11,560世帯、46,754人の詳細な情報が集められた[8]。この調査研究の結果から、1901年に出版されたのが 『Poverty, A Study of Town Life』であった。

その中でラウントリーは、ヨークの裕福な世帯についても調査をして、「健康的生活に要するものを確保できる...ために、それぞれの家族が毎週必要とする」[9]最低限の金額を意味する「貧困線 (a poverty line)」を導き出した。この辛うじて生存を維持する水準は、光熱費、家賃、食料、衣服、世帯や個人の小物類の費用を賄う経費に相当し、世帯の規模によって調整された。ラウントリーは、科学的な手法を用いて、この水準を導き出したが、これは、それまでの貧困研究では用いられていないものであった。例えば、彼は当時の一流の栄養学者たち (nutritionists) に助言を求めて、人々が病気になったり、体重を減らしたりしないために必要となる、最低限のカロリー摂取量や、栄養バランスについても見出そうと試みた。次いで、ヨークにおける食料品の価格を調査し、地域で最も安い食料品の価格を基に、最低限の飲食物(英語版)を買い求めるのに必要な金額を計算して、貧困線を定めた。

この手法を用いたところ、ヨークの総人口の 27.84% は、貧困線を下回る水準で生活していることが明らかになった[10]。この結果は、チャールス・ブースによるロンドンの調査の結果と一致するものであり、悲惨な貧困はロンドン特有の現象でありイギリスの他の地域には及んでいない、とする、当時一般的であった認識に挑戦するものであった。

ラウントリーは、貧困線を下回っている貧困層を、その貧困の理由によってふたつのグループに分けた。一次貧困 (primary poverty) の状態にある世帯は、基本的な生存に必要な物資を賄うのに必要な支出に見合うだけの収入を得ていなかった。二次貧困 (secondary poverty) に分類された世帯は、基本的な生存に必要な物資を賄うことが可能な収入がありながら、金銭を、飲酒賭博など別の方面で消費してしまい、生活に必要な物資を賄えなくなっていた[6][11]

調査結果の分析において、ラウントリーは、人生のある一定の段階にある人々、例えば、高齢者子どもたちは、他の年齢層に比べ、貧困線より下の深刻な貧困に陥りやすいことを見出した。これを踏まえて彼は、「貧困の循環 (poverty cycle)」という考え方を定式化したが[12]、これは絶対的貧困 (absolute poverty) に陥ったり、そこから抜け出したりという往還を、人生の途上で経験する人々もいるということを示すものであった。

ラウントリーの主張は、貧困は低すぎる賃金がもたらす帰結だとするものであり、伝統的に考えられていた、貧困は貧困者自身に責任があるという見解に異を唱えるものであった。
第二次ヨーク調査(1935年)

ラウントリーは、1936年に、ヨークにおける貧困について、さらに調査を行ない、この結果の報告に『Poverty and Progress』(貧困と進歩)という表題をつけた。この調査は、先に行われた最初の調査とほぼ同じ手法に基づいて実施され、ヨークの労働者階級の中に見出される絶対的貧困世帯が、前回調査から半減していたことが明らかにされた[13]。しかし、ラウントリーは、この調査における貧困線の定義を前回のものとは変えており、それによって絶対的貧困の基準も変わっているので、直接の比較にはなっていない。この調査において、厳密に言えば生存に必要とまでは言えないものであっても、必要と認められる費用の例として、新聞、本、ラジオ、ビール、タバコ、休日の支出、贈答品が組み込まれた。彼が導き出した結果は、貧困の原因が数十年の間に大きく変わったということであった。1890年代には、一次貧困の大きな理由は低賃金であり、52% に達していたが、1930年代には失業が 44.53% を占め、低賃金はわずか 10% になっていた[14]

前回よりも認められる必要な物資の範囲を広げたにもかかわらず、貧困状態にある住民の比率は、1936年には 18%、さらに1950年には 1.5% と減少していった。貧困者の比率が低くなったことも踏まえ、ラウントリーは残された貧困者への支援に乗り出し、仕事を得たことで、さらに多くの人々が貧困を脱することができた。
第三次ヨーク調査(1951年)

ラウントリーは、ヨークにおける3回目の調査を行ない、1951年に『Poverty and the Welfare State』(貧困と福祉国家)という表題をつけた報告を、調査の助手であったG・R・レイヴァース (G. R. Lavers) 海軍中佐と共作した。以前の調査が全数調査であったのに対し、今回は標本調査の手法が用いられた[15]

1950年代には、すでに絶対的貧困は、高齢者の一部など局所的に残存してはいたものの、もはや大きな問題ではなくなっており、拡大されてきた様々な福祉の提供によって、残存する貧困もやがては根絶されるものと考えられていた。


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