この項目では、競走馬について説明しています。この競走馬を題材にした映画については「シービスケット (映画)」をご覧ください。
シービスケット
調教中のシービスケット。鞍上はジョージ・ウルフ。調教中のシービスケット。鞍上はジョージ・ウルフ。
欧字表記Seabiscuit
品種サラブレッド
性別牡
毛色鹿毛
生誕1933年5月23日[1]
死没1947年5月17日[1][2]
父Hard Tack
母Swing On
母の父Whisk Broom
生国 アメリカ合衆国
生産者Wheatley Stable[3]
馬主Wheatley Stable
→Mrs. Charles S. Howard
→Charles S. Howard[3]
調教師V. Mara
→G. Tappen
→Jim Fitzsimmons
→Tom Smith[3]
競走成績
生涯成績89戦33勝[1][3]
獲得賞金437,730ドル[1][3]
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シービスケット(Seabiscuit、1933年5月23日 - 1947年5月17日)は、アメリカ合衆国で生産・調教されたサラブレッドの競走馬、種牡馬である。1930年代のアメリカ競馬で競走生活を送った馬で、初期は不遇を託つものの、よい人脈に恵まれて以降は快進撃を繰り広げ、仕舞いにはマッチレースで三冠馬を破るほどの活躍を見せた。晩年には故障からの劇的な復帰を遂げ、当時のアメリカ西海岸における最大の競走も制覇した。
1930年代初頭はアメリカにおける大恐慌時代であり、その最中に駄馬から活躍馬へと変身したシービスケットは一躍アイドルホースとして人気を博した。逸話も多く、同馬とそれに関わる人々を描いた小説が映画化されている。
後の1958年にアメリカ競馬殿堂に加えられ、またブラッド・ホース誌の選ぶ20世紀のアメリカ名馬100選において25位と位置付けられた。 シービスケットは1933年にウィートリーステーブルで生まれた鹿毛のサラブレッドで、父はマンノウォー産駒のハードタック、母はウィスクブルーム産駒の未出走馬スウィングオンという血統であった。馬名の「Seabiscuit」とは海軍用の堅パンのことで、これは父のハードタック(堅パンの意)から連想してつけられたものである[1]。 生後クレイボーンファームで育成され、ウィートリーステーブル所有で競走馬として登録された。父ハードタックは容姿の整った馬であったが、シービスケットはそれに全く似ず、毛並みは見栄えが悪く、尾も短く、脚はずんぐりとして、馬格
経歴
出自
また歩様もおかしかった。歩くときは大股で歩くため、常に脚が悪いように見えていた[4]。走る時は脚運びがうまくゆかず、前脚を後脚で蹴る悪癖も持っていた[4]。関係者からは「泡立て器のような足並み」と揶揄されたという[4]。
悪い面が多く見られる一方で、気性の面は父に似ずおとなしいという良い面もあった[5]。よく眠る馬で、朝もなかなか起き上がらず、時には厩舎で存在を忘れられたこともあるという[6]。
また食欲旺盛で、厩舎では常に何かを口にしており[6]、食事の後に自分の寝ワラを食べていることもしばしばあった[7]。食べ物を差しだすと喜んで食べたことから、厩務員から取材に来た記者までが色々な物を差しだして与えている。この食欲は後年まで衰えず、このため体重の調整にはしばしば苦労している。なかには間食を与えたことが原因で、調教師に激怒されクビにされた厩務員がいたほどである。 1934年、アケダクト競馬場にあったフィッツシモンズの厩舎に、シービスケットと、同父のグロッグ(Grog)という2頭のハードタック産駒が送り込まれた。そののんびりとした気性から、シービスケットはフィッツシモンズに「大きな犬」として憶えられていた[6]。実際に食事のときを除いてシービスケットは常にのんびりとしており、調教に至ってもゆっくりと走り、才能のかけらも見いだせない有様であった。 しかし程なくして、フィッツシモンズはシービスケットに能力が無いのではなく、能力があることを隠してさぼっていることを見抜くに至った。その知性について、フィッツシモンズは「本当は歌えるのに、そう仕向けない限りは絶対歌わない鳥のような奴だ」と喩えている[8]。あるとき、フィッツシモンズはシービスケットをファウストという名の馬[注 1]と併せ馬をさせ、シービスケットの乗り役に「鞭の代わりになる板きれを持ってこい」と指示した。フィッツシモンズの本来の調教方針は鞭を使わせないことであったが、その怠け癖を見越して、シービスケットに鞭を打つ実験を行ったのであった。その結果、ファウストはみるみる置き去りにされ、シービスケットの本来の能力が浮き彫りとなった[8]。このため、フィッツシモンズはシービスケットに限り、その調教に鞭を使うことにしていた。 やがて年初[注 2]が近づき、シービスケットも2歳馬としてデビューを迎えなければならない時期になっていた。しかしその調教量は十分とは言えなかったため、フィッツシモンズはアシスタントであるフィッツシモンズ・ジュニアにシービスケットを預け、競走への出走を調教代わりにさせることにした。そして自身はもっと早熟な馬[9]、およびグランビル 1935年1月19日、シービスケットはV・マーラ調教師の名義のもとで、ハイアリアパーク競馬場で行われた第1競走ダート3ハロン(約600メートル)でデビュー戦を迎えた。結果は10頭立ての4着であった。その3日後には早くもクレーミング競走を経験して2着、さらにその5日後にまたクレーミング競走と短い間隔で連戦したが、結局ハイアリアパークでは5戦して勝ち上がることはできなかった。4戦目よりブリンカーを装着[3]しており、以後ほとんどの競走でこれを着用している。
2歳時(1935年)
デビュー前
下積み時代