シードラゴン_(潜水艦)
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USS シードラゴン

基本情報
建造所エレクトリック・ボート造船所
運用者 アメリカ海軍
艦種攻撃型潜水艦 (SS)
級名サーゴ級潜水艦
艦歴
起工1938年4月18日[1]
進水1939年4月21日[1]
就役1) 1939年10月23日[1]
2) 1946年2月8日[2]
退役1) 1945年11月15日[2]
2) 1946年10月29日[2]
除籍1948年4月30日[2]
その後1948年7月2日にスクラップとして売却[2]
要目
水上排水量1,450 トン
水中排水量2,350 トン
全長310フィート6インチ (94.64 m)
最大幅26フィート10インチ (8.18 m)
吃水16フィート8インチ (5.1 m)
主機ホーヴェン=オーエンス=レントシュラー(H.O.R.)ディーゼルエンジン×4基
電源ゼネラル・エレクトリック発電機×2基
出力5,200馬力 (3.9 MW)
電力2,740馬力 (2.0 MW)
推進器スクリュープロペラ×2軸
最大速力水上:20.0ノット
水中:8.75ノット
航続距離11,000海里/10ノット時
潜航深度試験時:250フィート (76 m)
乗員士官、兵員70名
兵装.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

21インチ魚雷発射管×8基(前方4,後方4)/魚雷×24本


竣工時
3インチ砲(英語版)×1基7.62mm50口径機銃×2基7.62mm30口径機銃×2基
1944年5月[3]
4インチ砲(英語版)×1基20mm機銃×2基小口径機銃×2基

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シードラゴン (USS Seadragon, SS-194) は、アメリカ海軍潜水艦サーゴ級潜水艦の一隻。艦名はタツノオトシゴと近縁のリーフィーシードラゴンウィーディーシードラゴンに因む可能性があるが、アメリカ公文書ではネズッポ科の総称(Dragonet)に由来する可能性を示唆している。なお、退役から13年後にスケート級原子力潜水艦4番艦として2代目シードラゴン (SSN-584)が就役している。ウィーディーシードラゴン(Weedy sea dragon)リーフィーシードラゴン(Leafy sea dragon)
艦歴

シードラゴンは1938年4月18日にコネチカット州グロトンエレクトリック・ボート社で起工した。1939年4月21日にJ・O・リチャードソン夫人(太平洋艦隊司令長官ジェームズ・リチャードソン提督の妻)によって命名、進水し、1939年10月23日に艦長ジョン・G・ジョンズ少佐の指揮下就役する。

東海岸およびカリブ海での整調後、シードラゴンはニューイングランドに戻り、1940年5月23日にコネチカット州ニューロンドンを出航、フィリピンに向かった。第17潜水艦隊司令が同乗し、シードラゴンは11月30日にカヴィテに到着。アジア艦隊(英語版)の1隻として訓練活動に参加した。1年後にオーバーホールの準備に入り、真珠湾攻撃時の1941年12月8日にはウィリアム・E・フェラル少佐(アナポリス1927年組)の指揮下、カヴィテ海軍工廠でのオーバーホール作業が開始されていた。

2日後の12月10日、シードラゴンおよび姉妹艦のシーライオン (USS Sealion, SS-195) は、カヴィテに対する敵機の空襲を受ける。この日襲来したのは第十一航空艦隊塚原二四三中将)指揮下の第一航空隊に属する九六式陸攻27機で、カヴィテ海軍工廠とマニラ港を爆撃した。シーライオンは直撃弾を受け船体を破壊され、シードラゴンも爆弾2発が命中し損傷を受けた。爆発によりシードラゴンの艦橋の一部が剥ぎ取られた。破片がバラストタンクに穴を空け、司令塔に突き刺さった。この攻撃でサミュエル・H・ハンター少尉が戦死し、5名が負傷した。爆発による熱はシードラゴンの船体を焦がし、黒色の塗装には水泡が生じた。

波止場は火災と爆発によって包まれた。近くの弾薬庫に炎が迫り、シードラゴンに並んで停泊していた魚雷を搭載した貨物船に達しようとしていた。救難艦ピジョン (USS Pigeon, ASR-6) は危険を顧みずシードラゴンに接近、水路へと曳航した。その後シードラゴンは自力でマニラ湾へ移動した。その後、潜水母艦カノーパス (USS Canopus, AS-9) およびピジョンによる応急修理が行われ、その後12月15日の夜にアジア艦隊のスタッフが乗艦した。12月16日の0時にシードラゴンはマニラ湾を出航した。シードラゴンは駆逐艦バルマー (USS Bulmer, DD-222) に護衛されて南へ移動し、スリガオ海峡およびマカッサル海峡経由でスラバヤオランダ海軍基地へ向かい、同地で便乗者を降ろした後、塗装を除く修理が行われた。その後シードラゴンは最初の哨戒の準備に入った。
第1の哨戒 1941年12月 - 1942年2月

12月30日、シードラゴンは最初の哨戒でインドシナ半島沖の南シナ海に向かった。哨戒海域では侵攻する日本船団の探索を行った。1月8日、シードラゴンはカムラン湾への航路帯を哨戒する。その2日後、敵駆逐艦を観測し、2本の魚雷を発射したもののいずれも命中しなかった。駆逐艦はそのままのコースを進んだものの、潜水艦に対する反撃は行わなかった。シードラゴンは同海域に留まり、正午の直後に船団の推進音を観測する。1時間半後に船団を視認し、最後の船に対して接近を始めた。13時直後に魚雷を発射したものの外れ、再び攻撃態勢で接近を試みた。しかしながら1時間以内に船団は安全にカムラン湾に入港した。シードラゴンは東方へ後退し、日没後に浮上して充電を行う。その後駆逐艦を観測し、シードラゴンは気づかれないように海域を離脱しようとしたものの、駆逐艦はサーチライトを照射した。シードラゴンは潜航し、駆逐艦による2度の爆雷攻撃を回避して東方へ移動した。

1月12日の午前は日本軍の哨戒機の回避に費やされた。午後に6隻の船からなる船団に接近する。しかしながら最終確認のため潜望鏡深度に浮上すると、上空に点を確認する。3発の爆弾が投下されたがシードラゴンは潜航し、再び東方に移動した。18時過ぎ、シードラゴンは浮上して先の爆撃による被害がないか調査した。幸い、塗装は多少剥がれていたものの、その他の被害は見られなかった。とはいえ、所々に赤が入った黒塗りの艦塗装は、浅い水域で潜航しても敵は容易に発見でき不利だった。そこでシードラゴンは、航空機が頻繁に哨戒しているであろう海域では、43メートル(140フィート)から61メートル(200フィート)の水深で航行することとなった。

1月14日にはバレラ岬沖を哨戒し、翌1月15日には南下して敵を求めた。そして1月16日11時15分、シードラゴンは輸送船団を発見した。


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