シーティス_(潜水艦)
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艦歴
発注
起工1936年12月21日
進水1938年6月29日
就役1940年10月26日(サンダーボルトとして)
退役
その後1939年6月1日の試験潜航中に沈没。1939 - 1940年に引き揚げ、修復。サンダーボルトとして就役、1943年3月14日戦没
除籍
性能諸元
排水量水上 1,090t、水中1,560t
全長275 ft (84 m)
全幅26 ft 6 in (8.08 m)
吃水12 ft 9 in (3.89 m)(艦首)
14 ft 7 in (4.45 m)(艦尾)
機関ディーゼルエンジン5,000hp (3,700kW)×2
電気モーター2,900hp (2,200kW)×2
2軸推進
最大速力水上15.25ノット
水中9ノット
乗員士官、兵員59名
兵装4インチ砲1門
内装式前方魚雷発射管6門、外装式前方魚雷発射管4門(予備魚雷16本)、

シーティス (HMS Thetis (N25)) はイギリス海軍T級潜水艦の一隻。本艦は2つの艦名で就役した。最初のシーティスとして1939年3月4日に洋上試験を開始し、試験期間中の6月1日に沈没して99名の犠牲者をだした。その後引き揚げられ修復されるとサンダーボルトとして就役し、1943年3月14日に全乗組員と共に失われるまで大西洋地中海戦域で任務に就いた[1]。シーティスは、その就役期間中に2度に渡り乗組員と共に失われるという事態にみまわれた稀有な軍艦の一隻である。
シーティス

シーティスは、イングランドバーケンヘッド(Birkenhead)にあるキャメル・レアード造船所(Cammell Laird)で建造され、1938年6月29日に進水した。完成後の試験は艦首潜舵(hydroplane)の不具合により遅れたが、ようやくガイ・ボラス(Guy Bolus)少佐指揮の下でリバプール湾(Liverpool Bay)で開始された。シーティスは、最終の潜航試験を実施するためにタグボートのグリーブコック(Grebecock)を伴ってリバプール湾に向けてバーケンヘッドを出港した。通常の乗組員は59名であったが、キャメル・レアード造船所の技師とその他の海軍関係者を含めて総員103名が乗船していた。最初の潜航が1939年6月1日14:00時に試みられが、潜航するには軽すぎることから艦内の様々なタンク内の水量が調べられた。調査されたものの一つが、魚雷発射管内に注水されているかどうかということであった。

魚雷担当士官のフレデリック・ウッズ(Frederick Woods)大尉は、発射管のテスト弁を開いてみた。不運なことに第5魚雷発射管のテスト弁はエナメル塗料(enamel paint)で塞がっていたために発射管前方扉が開いているにもかかわらず水は漏れてこなかった。テスト弁を貫通させるためのが備わってはいたが、これは使用されなかった。このことと発射管扉開閉指示器の間違いやすい配置 - 縦に1番、2番、3番、4番、6番の5つとその下に5番発射管の指示表示盤が並び、各指示表示盤上では第5発射管の開閉指示表示はその他の発射管のものとは異なる表示位置であった - が、発射管後方扉を開かせることにつながった。流れ込む激流により艦首は水深150 ft (46 m)の海底に沈んだ。

救難ブイが放たれ、発炎筒が焚かれた。16:00時にグリーブコックがシーティスの異常に気付き、ゴスポート(Gosport)のドルフィン潜水艦基地へ無線で報じると即座に捜索が開始された[2]。艦尾は海面に出ていたが、定員過剰、艦内の気圧増加と救出活動開始までの20時間の遅れによる二酸化炭素中毒によりその他の搭乗者が犠牲になる前に脱出できたのは僅か4名の乗組員のみであった。この事故で通常の乗組員53名に加え、キャメル・レアード造船所の26名、その他の海軍将校9名、ヴィッカース・アームストロング社の社員4名、業者2名の合計99名の生命が失われた。捜索活動のために派遣されてきた駆逐艦ブレイズンは、自艦の存在を知らせるために小型の爆雷を海中に投下しており、乗組員たちはブレイズンがシーティスを発見するまで艦からの脱出を待機していた。

この事故により造船所に対して弁を塞いでいた付着物を取り除かなかったという過失を主張する一人の寡婦からの訴訟が提起された[3]。この寡婦にとっては不幸なことに海軍当局は国王の特権(Crown Privilege、現在は「公益を理由とする秘匿特権」:Public Interest Immunityという名称で知られる)を発動することに成功し、「公益を侵害する」という理由に基づいてその他諸々と共に「シーティスの船体及び機器類に関する契約」を裁判所の証拠物件として開陳することを封じた[4]。この裁判は、担当裁判官が何の精査も無く額面通りに海軍当局の主張を受け入れて後に判決が覆ったという点で英国法の中でも興味深い案件の一つである。

沈没した艦の引き揚げ作業は、リバプール・アンド・グラスゴー・サルベージ協会(Liverpool & Glasgow Salvage Association)に委任され、引き揚げ作業が完了したときにシーティスから外された船鐘が海軍当局から同協会へ贈呈された。贈呈された船鐘は、現在マージー海洋博物館(Mersey Maritime Museum)に展示されている。


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