USS シーウルフ
基本情報
建造所ポーツマス海軍造船所
運用者 アメリカ海軍
艦種攻撃型潜水艦 (SS)
級名サーゴ級潜水艦
艦歴
起工1938年9月27日[1]
進水1939年8月15日[2]
就役1939年12月1日[2]
最期1944年10月3日、モロタイ島北方沖にて沈没。
除籍1945年1月20日
要目
水上排水量1,450 トン
水中排水量2,317 トン
全長310フィート6インチ (94.64 m)
最大幅26フィート10インチ (8.18 m)
吃水16フィート8インチ (5.1 m)
主機ゼネラルモーターズ製248型16気筒ディーゼルエンジン×4基
電源ゼネラル・エレクトリック製発電機×2基
出力5,400馬力 (4.0 MW)
電力2,740馬力 (2.0 MW)
推進器スクリュープロペラ×2軸
最大速力水上:20.0ノット
水中:8.75ノット
航続距離11,000海里/10ノット時
潜航深度試験時:250フィート (76 m)
乗員士官、兵員55名
兵装.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}
21インチ魚雷発射管×8基(前方4,後方4)/魚雷×24本
竣工時
3インチ砲
シーウルフ (USS Seawolf, SS-197) は、アメリカ海軍の潜水艦。サーゴ級潜水艦の一隻。艦名はオオカミウオ科の一種アトランティック・ウルフフィッシュ(和名シロオオカミウオ)の通称に因む。その名を持つ艦としては2隻目。シロオオカミウオ(通称Sea wolf) シーウルフは1938年9月27日にメイン州キタリーのポーツマス海軍造船所で起工した。1939年8月15日にエドワード・C・カルブファス夫人によって命名、進水し、1939年12月1日に艦長フレデリック・B・ウォーダー少佐(アナポリス1925年組)の指揮下就役する。艤装が完了するとシーウルフは1940年4月12日にニューハンプシャー州ポーツマスを出航した。整調巡航はパナマ運河地帯まで南下して行われ、6月21日に完了した。その後太平洋艦隊に配属され、カリフォルニア州サンディエゴが母港となる。1940年の秋にシーウルフはアジア艦隊 太平洋戦争が始まった1941年12月8日、シーウルフは最初の哨戒でルソン島沿岸に向かった。機雷原を抜け[4]、サンベルナルジノ海峡を経由してバブヤン諸島方面で日本軍艦船を探索[5]。12月14日、シーウルフは.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯18度31分 東経122度02分 / 北緯18.517度 東経122.033度 / 18.517; 122.033
艦歴
第1、第2、第3の哨戒 1941年12月 - 1942年2月
12月31日、シーウルフは2回目の哨戒で特別任務に就いた。アジア艦隊司令部のスタッフを乗せオーストラリアに向かった。1942年1月9日、シーウルフは10日間の行動を終えてダーウィンに帰投した。
1月16日、シーウルフは3回目の哨戒でコレヒドール島に向かった。シーウルフにはコレヒドールに篭る陸軍部隊向けの50口径対空機銃用弾薬を30トンから40トン搭載していた。1月21日、シーウルフは北緯01度24分 東経125度35分 / 北緯1.400度 東経125.583度 / 1.400; 125.583の地点で朝潮型駆逐艦、球磨型軽巡洋艦に護衛された7隻の輸送船団を発見したが[9]、搭載していた魚雷8本を発射する機会は無かった。1月28日夜、シーウルフはコレヒドール島南岸に到着[10]。弾薬は陸軍部隊に渡され、代わりに魚雷と便乗者を乗せたシーウルフは翌1月29日にコレヒドール島を離れた[10]。2月7日、シーウルフは22日間の行動を終えてスラバヤに帰投した[11]。 2月15日、シーウルフは4回目の哨戒でジャワ海およびロンボク海峡方面に向かった。2月19日朝、シーウルフはバドゥン海峡で第八駆逐隊(阿部俊雄大佐)所属の駆逐艦大潮、朝潮、満潮に護衛された2隻の輸送船、バリ島攻略部隊を乗せた2隻の陸軍輸送船、笹子丸(日本郵船、9,258トン)と相模丸(日本郵船、9,264トン)を発見[12]。輸送船に対して魚雷4本を発射し、1隻への損害は確認できなかったが、もう1隻は船尾を下に右舷に傾いたと報告された。シーウルフと相模丸は、後にもう一度相見えることとなる。一週間後の2月26日、シーウルフは後部発射管から貨物船に対して魚雷を発射し、ブリッジ前方に一発が命中したのを目撃した。その後護衛の駆逐艦からの爆雷攻撃を回避するため潜航した。シーウルフは3月に入るとジャワとクリスマス島の間を哨戒した。3月31日、シーウルフはクリスマス島沖に接近し、クリスマス島占領作戦のため停泊中の日本海軍艦艇群を発見。この時点でシーウルフの持ち魚雷は9本であり、嗜好品は底を突きかけていた[13]。
第4の哨戒 1942年2月 - 4月