シヴァージー
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この項目では、マラーター王について説明しています。競走馬については「シヴァージ」をご覧ください。

シヴァージー
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マラーター王

在位1674年 - 1680年
別号マハーラージャ

出生1627年4月6日
シヴネーリー
死去1680年4月3日
ラーイガドラーイガド城
子女サンバージー
ラージャーラーム
家名ボーンスレー家
父親シャハージー
母親ジジャー・バーイー
宗教ヒンドゥー教
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シヴァージー・ボーンスレー(マラーティー語: ??????? ?????, 英語: Shivaji Bhonsle、1627年4月6日 - 1680年4月3日)は、マラーターの指導者にして、マラーター王国の創始者かつ初代君主(在位:1674年 - 1680年)。君主号チャトラパティを付けて、チャトラパティ・シヴァージーとも呼ばれる。日本語では、シバジと表記されることもある[1]

シヴァージーはビジャープル王国ゴールコンダ王国、さらにはムガル帝国といったイスラーム王朝に対抗しようとして、デカンにヒンドゥー王朝を復興し、その結束を試みた。
生涯
幼少期シヴァージーと母ジジャー・バーイー

1627年4月6日、シヴァージーはアフマドナガル王国マラーター軍人であるシャハージーの息子として、デカンのシヴネーリーで生まれた[2]

当時、デカンのアフマドナガル王国はムガル帝国の圧力にさらされ、1633年6月にはムガル帝国は王国の首都ダウラターバードを落としたが、シャハージーは幼王ムルタザー・ニザーム・シャー3世を擁して抵抗を続けた。しかし、その抵抗もむなしく、1636年2月にシャハージーはムガル帝国の軍に敗れ、ムルタザー・ニザーム・シャー3世は捕えられ、ダウラターバードへと送還された。

その後、シャハージーはアフマドナガル王国を支援していたビジャープル王国へと亡命し、プネーとその近郊マーヴァルに領地を与えられ、首都ビジャープルの宮廷に出仕することとなった[2]

母ジジャー・バーイーは学識のある教育者で、シヴァージーにヒンドゥー教の二大叙事詩マハーバーラタラーマーヤナを教え、のちのシヴァージーに大きな影響を与えたといわれる。
マラーターの結集とコンカン地方の制圧シヴァージーとその仲間

シヴァージーは物心ついた時から母もとを離れ、冒険を好むようになり、マーヴァリのみならずマラーターの居住地でもあるコンカン地方も旅した[2]。コンカン地方にはシャハージー以外にもビジャープル王国から封土を与えられたマラーターの領主が多数いた。

シヴァージーはこの冒険で、マラーターの結束を掲げる彼の思想に共感する若者たちと会い、多くの仲間を得たという。

そして、1644年以降、シヴァージーはビジャープル王国から独立を試みるようになり、同年にトールナーの城塞を王国の司令官イナーヤト・ハーンから奪ったのをはじめ、知略を用いてつぎつぎと城塞を落としていき、コンカン地方の制圧に乗り出した[2]

そのため、1648年7月にシヴァージーの父シャハージーは王国に逮捕されたが、それでもシヴァージーは独立の動きをやめず、1653年にジャオーリーを獲得して、コンカン地方の大部分を征服した。

こうして、シヴァージー率いるマラーター勢力は、プネー周辺をはじめコンカン地方に一大勢力を築くこととなった[2]
ビジャープル王国との戦いアフザル・ハーンの死

ビジャープル王国はこれを認めるわけにはいかず、1659年5月にビジャープル王アリー・アーディル・シャー2世はシヴァージーの討伐を命じ、アフザル・ハーンを指揮官とする2万を超す兵を送ってきた[2]

シヴァージーは策略をめぐらし、同年11月10日にビジャープル王国の軍がプラタープガド城を包囲すると、降伏するそぶりを見せ、アフザル・ハーンと面会した[2]。その際、シヴァージーは抱擁するそぶりを見せて、アフザル・ハーンの腹を切り裂き、懐に隠していた短剣をその脇腹に刺して殺害した[2]

のち、シヴァージーの軍はビジャープル軍に突撃し、指揮官の突然の死に敵軍は混乱しており、10,000の死傷者を出して逃げた。

その後、シヴァージーはビジャープル王国の数々の砦を落とし、1659年 12月に王国はルスタム・ザマーン率いる兵10,000を派遣したが、同月18日コールハープルでこれを破った。この戦いでビジャープル王国は7,000もの死傷者をだし、これ以降王国はシヴァージーに対して大規模な軍を送ることはなかった。

これにより、シヴァージーはマラーターの指導者として、ビジャープル王国の領内に独自の政権を確立するに至った。
アウラングゼーブとの対立シヴァージー

シヴァージーはビジャープル王国と戦いながらも、北方のムガル帝国も敵として見るようになっていた。

1657年10月、シヴァージーはすでに、ムガル帝国の支配する北コンカン地方の領域に侵入し、ムガル帝国の武将ムハンマド・ユースフなどと交戦し、1658年1月までに30ほどの砦を収奪した。

当時、デカンの総督だったアウラングゼーブは、ダーラー・シュコーといった兄弟と帝位をめぐり争っており、その討伐に積極的になれず、同年2月14日に手紙を送る程度だった。

しかし、1659年半ばまでにアウラングゼーブはその王座を確固たるものにし、ビジャープル王国を破ったシヴァージーの勢力が大きくなるのを見て、その討伐を決意した。
シヴァージー、ムガル帝国軍を破るシヴァージー

1660年1月にアウラングゼーブは、デカンにいた叔父シャーイスタ・ハーンにシヴァージーの討伐を命じて、彼はアウランガーバードを出てシヴァージーの討伐へと向かった[2]

同年3月3日、シャーイスタ・ハーンはコンカン地方に侵入し、そこからさらに奥に入り、いくつかの城を修復させた。

この頃には、シヴァージーもビジャープル王国から事実上独立しており、ムガル帝国の軍との対決姿勢を見せた。シヴァージーはマラーター農民を軍事的に組織し、軽騎兵を用いた機動的な戦法で、重装備のムガル帝国軍を翻弄し、各地で討ち破った。

1663年4月には、シヴァージーはプネーにいたシャーイスタ・ハーンに奇襲をかけ、アウランガーバードにまで後退させ(彼はのちに更迭され、ベンガル太守となった)、ムガル帝国の軍相手に事実上勝利した。

そして、シヴァージーは襲撃の領域を拡大し、デカンを越えての襲撃も試みるようになり、1664年1月に4000の騎兵でグジャラートスーラトを略奪した。

突然の襲撃に、スーラト知事イナーヤト・ハーンは何もできず、シヴァージーはこの略奪により、1000万ルピーもの戦利品を獲得した。
ジャイ・シングの派遣と敗北シヴァージーとジャイ・シング


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