シンガポール華僑粛清事件
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シンガポール華僑粛清事件(シンガポールかきょうしゅくせいじけん)とは、1942年2月から3月にかけて、日本軍の占領統治下にあったシンガポールで、日本軍(第25軍)が、中国系住民多数を掃討作戦により殺害した事件。1947年に戦犯裁判(イギリス軍シンガポール裁判)で裁かれた[1]
概要詳細は「日本占領時期のシンガポール」を参照

1942年2月15日、イギリス軍が日本軍第25軍[注釈 1]に降伏し、日本軍はシンガポールを占領した[2]

同月21日に、第25軍司令部は、抗日分子の摘発・処刑のため、シンガポールの市街地を担当する昭南警備隊[注釈 2]、シンガポール島のその他の地域を担当する近衛師団[注釈 3]マラヤ半島ジョホール州を担当する第18師団[注釈 4]およびジョホール州以外のマラヤ全域を担当する第5師団[注釈 5]に抗日分子の多いと見られた華僑の粛清を命じ、シンガポールを含むマレー半島各地で掃討作戦が行われることとなった[3]

日中間の戦争状態が拡大する中で、東南アジア各地では、日本軍施政圏下の華僑による反日感情がたかまり、対中支援活動が盛んになっており、特にシンガポールの華僑は1938年10月の南僑総会の組織化に中心的な役割を果たし、1941年12月30日にはイギリス当局の要請もあって中華総商会を中心に星州華僑抗敵動員総会を発足させるなどしていたため、日本軍はイギリス領マラヤとくにシンガポールの華僑が東南アジアにおける抗日運動の中心になっていると見なしていた[4][5]
前景・背景・後景

前景

シンガポールを含めたマレー半島には元々マレー人が住んでいたが、ここを19世紀に植民地化した英国が主に、錫鉱山の労働者として中国人を、ゴム園の労働者としてインド南部のタミル人を主とするインド人を労働者として導入した。やがて中国人は小規模ながら錫鉱山経営や商業、ゴム園の労働者や経営にも進出、インド人は金融・商業にも進出、マレー人は米作を主とする農業に従事していた。やがて中国人はマレー人と並ぶ人口になっていった。(1941年6月には中国人238万人と、マレー人228万人を超えるまでになったとされる。)しかし、英国は旧来のマレー支配層との関係を重視、親マレー人政策(戦後のブミプトラ政策ではない)を取り、官吏にマレー貴族、警官にもマレー人を登用、さらに1930年代の大恐慌時代には錫鉱山・ゴム農園の閉鎖が相次ぎ、職を失った中国人らは帰国するか居住地近くの土地で農作業に携わるしかなくなったが、英国側はマレー人との意識を持つサルタンらの要求に応じて中国人の土地取得を制限し、マレー人を保護する政策をとった。そのため、中国系住民の不満が高まっていったとされるが、比較的早くから行われていたことや太平洋戦争前は中国人・マレー人の居住地は分かれていたため、対立は目立ったものにならなかったとされる[6][7][8]。不況は1930年代後半期に恐慌前の水準に回復、さらに日中戦争や第2次世界大戦の勃発もあり米国への輸出が増え、マラヤの錫は1940年には世界の1/3、ゴムは1939年には世界の40%近くの生産を占めるようになっていった[9][6]

背景

もともと日本軍の南方占領の目的は1941年11月20日大本営政府連絡会議で決定されたように重要資源の獲得であった。他にも南方軍総司令部でも、そのための抽象的な方針は示されたが、東南アジア各地で経済的な力を持っていた華僑に対する具体的な施策は現地の軍に任された。例えば、マラヤを占領した第25軍の「華僑工作実施要領」(1941年12月)では服従を誓い協力を惜しまない動向をとらざる者に対しては断乎その生存を認めないとしていた。対して、中国系住民の側では日中戦争以来、蒋介石などの抗日政府を支持し、義捐金の募集・寄付、故国投資活動、日貨排斥、宣伝活動を行い、日本がマラヤに侵攻してくると抗日組織に身を投じた者も多かった。

シンガポールでの華僑粛清が起こった背景としてはしばしば以下のように語られる。@華僑が日本軍のマレー作戦中に火花信号による英軍機誘導等の通敵行為をした、A最も信じられている理由として、シンガポール戦とくにブキテマ高地において華僑義勇軍が勇敢に戦い、日本軍に多大な犠牲を強いた、B戦犯裁判でも理由として挙げられた、抗日華僑が市内で武装攪乱を準備、あるいは市内の治安が悪化あるいはその危険性があった。ただし、@具体的な事例は極めて少なく、大西憲兵隊中佐も技術的に困難で、軍の不安が招いた懸念ではないかとしている、また、マレー戦そのもので華僑ゲリラが活動した実績も能力もほとんど無かった、A抵抗の激しかったブキテマでも華僑義勇軍の実績や能力については殆ど同様で、義勇軍側の思い入れや自己宣伝である、Bむしろ、大西憲兵隊中佐は治安は憲兵隊等の入市とともに回復傾向に向かっていったとし、これは当時の大谷敬二郎憲兵中佐や第18師団支隊を率いた侘美浩少将等の当事者らの証言や河村少将日記の原本とも一致する[10][11]。(実際に行為者らが、粛清当時の言動としている内容については、後述の事件を参照のこと。)

後景(とくに戦中・戦後のマレー半島側に及ぼした影響)

マラヤ共産党・人民抗日軍は本来人種・性別を問わない組織で、マレー人やインド人の部隊もあったものの、事実上その9割以上が中国系住民からなる組織であった。日本軍のマラヤ侵攻以前から、抗日グループの結成は進んでいたようではあるがきわめて弱体で、有効な抵抗ができるようなものでなかったと見られるものの、シンガポールでの華僑虐殺を受けてマレー半島では華人らの参加が大きく進み、さらにその後の英軍による武器援助を受けて、有効な抗日活動が初めて可能になったとされる。日本側は抗日運動を弾圧、取り締まるため、台湾人等の中国人さらに現地中国人やマレー人の協力者を情報提供者、さらにはマレー人警官等の現地人を使って直接、弾圧を担わせるようになっていった。その結果として、中国人を主とする抗日組織も、中国人の対日協力者だけでなく、報復に人種を問わずマレー系やインド系の対日協力者も含めて襲撃するようになっていき、今度は、さらにその報復として、マレー系住民も中国系住民の集落を襲撃していったとされる。この日本軍側の分断策の結果として、皮肉なことに中国系住民の華人としての一体感が高まった一方で、華人とマレー系住民の対立が起こっていったとされる。太平洋戦争後、抗日組織が表に出てくると、これは激化、報復合戦はいっそう激しくなり、これは1946年3月頃まで続いたとされる。その後、共産政権の樹立を目指すマラヤ共産党と植民地支配の維持を狙う英軍との闘いとなり、マレーシア独立後も英軍の戦いをマレーシア新政府が引継ぐ形でマレー半島では共産勢力との戦いが続くこととなった。
事件

一般に、日本ではこの粛清は、一次が市街地区で昭南警備隊(それまでの憲兵隊が中心であった)により2月21日?2月23日(一部は長引いて25日か26日まで)、二次がシンガポール島の郊外地区で近衛師団により2月28日~3月1日まで実施されたといわれる。しかし、実際には、2月8日深夜シンガポール島への上陸直後から一週間ほどのシンガポール線の中で0次ともいうべき華僑虐殺が始まっていたとされる[12]。(また、この中で、犠牲者が華僑というわけではないが、アレクサンドラ病院事件という日本軍による虐殺事件が起きている。)

シンガポールの占領後、戦闘部隊は不祥事件の発生を警戒してシンガポール郊外に留められ、1942年2月16日に、市内の治安維持やイギリス軍の武装解除にあたるため、第2野戦憲兵隊[注釈 6]がシンガポール市内に入った[13]。同月17日、第5師団歩兵第9旅団長だった河村参郎少将が昭南警備隊の司令官に任命され、同警備隊には、第2野戦憲兵隊に加えて、第5師団から歩兵第11連隊第3大隊[注釈 7]歩兵第41連隊第1大隊[注釈 8]が配属された[14]。また軍参謀・林忠彦少佐が警備隊付とされた[14]

第25軍の山下奉文軍司令官は、河村少将に、軍の主力部隊を速やかに新作戦へ転用するため、日本側にとってのシンガポールの安全を乱し、軍の作戦を妨げる可能性のある華僑「抗日分子」を掃討することを指示した[15]。作戦の詳細については軍参謀長・鈴木宗作中将、軍参謀・辻政信中佐から指示があり、掃討作戦の終了後は警備隊の兵員を別作戦に転用するので、作戦を同月23日までに終わらせること、選別対象は@元義勇軍兵士、A共産主義者、B略奪者、C武器を所持・隠匿している者およびD日本軍の作戦を妨害する虞のある者、治安と秩序を乱す者並びにその虞のある者とすること、掃討の方法として、中国人の住民を集めて抗日分子を選別、並行して疑わしい場所を捜索して隠れている者を拘束し、抗日分子は全て秘密裏に処刑することなどが伝えられた[16]。また、市内を担当する昭南警備隊については辻参謀が作戦の監督役とされた[17]。河村少将は、とくにDの抗日分子(並びにその虞のある者)の選別が難しいと鈴木参謀長に相談し、先に入手していた中国人団体メンバーの名簿[18]をもとに選別を行うことにした[19]

なお、上記名簿については、虐殺に責任がある憲兵隊の指揮官クラスの話に出てくるだけで、現場で選別にかけられた現地住民はもとより、現場実行にあたった一般の憲兵・補助憲兵らからも実際にそういった名簿があったという証言はみられない。(わずかに、TBS出身のノンフィクション作家の中島みちがその著書に、憲兵らが現地住民らに名簿が見えないよう隠して利用しているのを見たと、親しい知人でマレー戦時の従軍記者であった者から聞いたとして書いている[20]。ただし、中島は、その知人とは同じジャーナリスト仲間にあたる関係で、内容も差障りがあるとは思えないことにもかかわらず、また、著書の性格からも証言者の名を明らかにすべきものでありながら、その元記者の名をなぜか伏せており、全く真偽が不明である。)

その後河村少将は第2野戦憲兵隊の大石隊長に指示を伝え、大石隊長が林忠彦参謀と相談して警備隊命令を作成した[21]。また、元憲兵隊員の大西覚の回想録や、同人が分担して書いたか同人への取材によると見られる『日本憲兵正史』では、実施要領を定め、1.(警官・密偵等の)現地人を利用する、2.(イポーで入手した抗日献金目的の団体やその他の進言による)名簿を基準とする、3.老幼婦女子・病人を先に検問する、4.共産党員・義勇軍・ゲリラ党加盟者は特に厳重にする、5.無頼漢・前科者は現地人証言と警察・刑務所の記録を参考にする、6.指定地域に集合後の空家は適宜検索する、7.検問をパスした者に領民証を交付することを決めたという[22]。林は、これが鈴木参謀長の指示と微妙にズレがあることについて、大石憲兵隊長段階での具体化の過程でこうなったのではないかと考えている。ただし、集合者は18~50歳の男性と25軍司令官名で布告され、そのように現地新聞にも載っている。女性を集めていたところもあったこと等から、1.?7.は戦犯裁判にあたって関係者擁護も見据えた上で元憲兵隊員らが持寄った情報から、彼らなりに起こった事態を理解して、再構築した情報である可能性もある(もし婦女子も含めて検問するなら、日数が足りないものがますます足りなくなる筈となる)。また憲兵は選別を担当することとし、処刑場所の選定や処刑方法は近衛師団の歩兵を憲兵の補助に充てた「補助憲兵」が担当することとした[注釈 9][24]

2月19日に大西の回想録では山下軍司令官の名で「シンガポール在住の18-50歳の華僑は21日正午までに所定の場所に集合せよ」とする警備隊命令が布告されたとする[25]。また、これに従わない者は厳重処分されるものとされていた。

2月21日から23日にかけて、憲兵隊はシンガポールを5つの地区に分けて検問を行った。集合場所に集まってきた華僑を尋問し、選別された華僑をトラックに載せて海辺や山中に連行し、あるいは小舟で海上に連れ出し、機銃掃射により殺害した[注釈 10][27]

これらの日本軍による華僑殺害は、中国語で「検証大屠殺(中国語:??大屠?)」あるいは「大検証(中国語:大??)」と呼ばれた[28]。また、日本語からの「粛清(中国語:?清、英語:Sook Ching)」という言葉も知られている。(参考:?清大屠?)

選別にあたっては現地人協力者も利用、彼らが華僑らから報復を受けないよう、KKKを思わせるフードを彼らに被らせて選別にあたらせているケースもあった。一方で、殺害の対象となった「抗日分子」の選別は、事前に取り決めた基準や(本当に存在したか疑問があるが)名簿に照合する方法で厳密に行われていたわけではなく、辻参謀が現場を訪れて「シンガポールの人口を半分にするつもりでやれ」と指示を飛ばすなど、粛清する人数そのものが目的化されていたため、外見や人相からそれらしい人物を適当に選び出していた[29]。このため、多数の無関係のシンガポール華僑が殺害された[30]

また、集合させられる華僑らには、本来は一定年齢の成人男性(15?50歳とされているものが多い)の華僑のみを対象に5日分の糧食を持参して決められた場所に集合するよう指示するはずだったが、地区・日時により、全く飲食物の持参が指示されていなかったケース、6日分の糧食とされていたケース、男女問わず集められたケース等様々であった。林博史はこれを実施にあたって混乱があったものと解釈しているが、人が集まらないために日本軍から住居から狩り立てて集めたケースも一部にはあるものの、現地研究者の許雲樵の報告によれば、検証が終わった後、女性が何名か消えていたケース[31]、成年女性と子連れでない若い女性のみが別に分けて閉じ込められてやがて騒ぎ出した所かなり上級の将校がやって来て女性らを釈放させた為に事なきを得たケース[31]等もあり、勝手に慰安婦を確保しようとした場合や、華僑らに初めから多くの糧食持参を指示すれば遠方に連れ去られる可能性があると考えて逃げ出すことを恐れ、どうせ殺すならと初めから意図的に食料持参を指示しなかった場合もあったことが疑われる。糧食を持参しなかったケースでは、たまたま集合地域に住んでいた華僑らが同情して差入を行ったり[32][31]、妻子らが見張りの日本兵に殴られて泣きながらも夫らに差入を続けたり、それもなければ、ときおり来るスコールに頼って水分補給をしていたようである。

この時の被害者数については、後述「被害者数」を参照。

華僑粛清事件のとき、シンガポール総日本領事館の篠崎護は、警備司令部の特別外事高等係という立場を利用して、日本軍と戦前から関係あることを示す保護証をついにはガリ版刷りまで使って作成・発行し、多数の華人を摘発から免れさせた。戦後にシンガポールの中華総商会主席に就いた陳共存(K・C・TAN)も保護証で難を逃れたと述べている[33]
戦犯裁判
起訴

1947年3月10日、イギリス軍シンガポール裁判で、陸軍の、近衛師団長・西村琢磨中将、昭南警備隊長・河村参郎中将と、第2野戦憲兵隊長・大石正幸中佐ら5人の憲兵隊の将校が、一般住民の生命と安全に責任ある立場にありながら、シンガポールの中国系住民多数の殺害に関与し、戦争法規と慣習に違反したとして起訴された[34]


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