シンガポール法
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旧最高裁判所庁舎(2009年9月時点。1939年から2005年まで使用された。)

シンガポール法(シンガポールほう:Law of Singapore)は、イングランド法を基礎とする。主な法分野(特に、行政法(en:Administrative law in Singaporeを参照。)、契約法衡平法および信託法財産法ならびに不法行為法)は、その大部分は裁判官によって創造されてきたものであるが、今ではそのうちの一定の側面は制定法によってある程度修正されている。しかしながら、他の法分野(例えば、刑法(en:Criminal law of Singaporeを参照。)、会社法および家族法)は、性質上ほぼ完全に制定法によって定められている。

裁判官は、シンガポールの裁判例を参照するだけでなく、今なお、イングランドの判例法を参照することがある。それは、その問題が、伝統的なコモン・ローの法分野に関わる場合や、イングランドの立法を基礎とするシンガポールの制定法またはシンガポールに適用があるイングランドの制定法の解釈に関わる場合である。近時においては、さらに大きな傾向として、重要な英連邦諸法域(オーストラリアカナダなど。)を考慮することもある。特に、これらの法域がイングランド法とは異なるアプローチを採用する場合にその傾向が見られる。

一部のシンガポールの制定法は、イングランドの立法ではなく他の法域の制定法を基礎としている。この場合、当該法域における当該基礎とされた制定法についての裁判所の判断がしばしば調査されることになる。こうして、インド法は時として、インドの制定法を基礎とする証拠法(Evidence Act)(Cap. 97, 1997 Rev. Ed.)や刑法典(Penal Code)(Cap. 224, 2008 Rev. Ed.)の解釈において考慮されるのである。

これに対して、シンガポール共和国憲法(Constitution of the Republic of Singapore) (1985 Rev. Ed., 1999 Reprint)の解釈については、裁判所は依然として外国の法律資料を考慮したがらない傾向にあり、これは、憲法の解釈については他の法域からの類推によってではなくまずは自分自身の中で行うべきとの考えによるものであり、また、諸外国における経済的、政治的その他の条件はシンガポールとは異なるものと考えられているためである。

イギリスの統治下でのシンガポールにおいて制定された国内治安法(Internal Security Act)(Cap. 143)(一定の状況においては裁判所の審理なしでの拘禁を授権するもの)や結社法(Societies Act)(Cap. 311)(団体の設立について規制するもの)などがある。)などの制定法は、今でも法令集に掲載されており、身体刑死刑も依然として用いられている。
歴史
1826年までサー・トーマス・スタンフォード・ラッフルズ(1781年7月6日-1826年7月5日)

近代のシンガポールが創設されたのは1819年2月6日のことである。創設したのはイギリス東インド会社の役員にしてベンクーレン副知事サー・スタンフォード・ラッフルズであり、東洋での交易に対するオランダ人の支配への対抗を企図したものであった。ジョホールスルタンとジョホールのトゥムングンから東インド会社に対するシンガポールへの「工場」の設置の許可が得られたのが同日であったというものであり、シンガポールの完全な譲渡が行われたのは1824年のことである。イギリスによるシンガポールの取得前においては、シンガポールを所管するマレー人の首長はジョホールのトゥムングンであったとされている。ジョホール王国マラッカ王国の後継国であり、いずれも自身の法典を有していた。また、アダット法(しばしば不適切にも「慣習法」と訳されることがある。)もまた、イギリスによる取得前はシンガポールの住民に適用されていたかもしれない。しかしながら、実際にどのような法が適用されていたのかは、全くといっていいほど不明である。イギリス人は、シンガポールの取得時においては同島においてはいかなる法も実施されていなかったものとみなしてきた。

1823年にラッフルズはシンガポールの管理のための「規則」(Regulations)を発布した。1823年1月20日規則3によって、「イギリス国旗の下に頼る全ての種類の人々」を管轄する治安判事職を置いた。治安判事は、「現地の状況が許す限り、イギリスの治安判事のやり方に従い、技術的事項や無用な方式を可能な限り排除し、最大限の判断力および良心ならびに実質的正義の原則に従って、平静さと裁量をもってその職の任務を執行する」ことができた。ラッフルズは、その規則を制定する法的権限の範囲を逸脱して行動していたため、その規則はおそらくほとんど違法であった。ラッフルズは、ベンクーレンの管轄下においてシンガポールに工場を設置する権限は有していたが、シンガポール全体をベンクーレンの支配下に置く権限は与えられていなかったのである。この点、ラッフルズによるシンガポールの取扱いは、まるで、スルタンとトゥムングンとの間の条約が工場の設置を許可しただけでシンガポール全体がイギリスに割譲されたかのようであった.[1]

同年、ラッフルズはジョン・クローファード(John Crawfurd)をシンガポール理事官(Resident)に選任した。クローファードはラッフルズにより設置された司法制度の合法性に疑問を抱き、賭博をした者に対する鞭打ちや彼らの財産の差押えを命じた治安判事らの手続を無効化した。クローファードは結果として治安判事職を廃止し、代わりに、理事官補佐(Assistant Resident)が監督し小規模の民事事件を取り扱う請願裁判所(Court of Requests)と、その他全ての事件を管轄し彼自身が統轄する理事官裁判所(Resident's Court)を置いた。クローファードは、適用すべき法について何らの権威のある指針を有していなかったため、「イングランド法の一般原則」に基づいて、可能な限り現地住民の「異なる階級の特徴と慣習」を考慮しつつ裁判を行った[2]。不幸なことに、クローファードの裁判所もまた法的基礎を欠いたため、シンガポール所在のヨーロッパ人に対しては何らの法的権限をも有していなかった。イギリス臣民に関わる重大な事件はカルカッタの判断を仰がねばならなかった。そうでない場合には、彼がなし得たことは彼らをシンガポールから追放することだけであった[3]

ラッフルズとクローファードによって設置されたシンガポールの裁判所の法的地位には疑いがあったものの、事実上の状態として、1819年から1826年まではイングランド法の原則がシンガポールに適用されていたことになる[4]

1824年6月24日、1824年シンガポールの東インド会社への移転等法(Transfer of Singapore to East India Company, etc. Act 1824)[5]により、シンガポールおよびマラッカは正式に東インド会社に移転された。1802年インドにおけるマールバラ砦法[6]により、両地域は、同領域内の他の地域とともに、オランダからイギリスに割譲され、ベンガルのウィリアム砦(Fort William)の管区(en:Bengal Presidencyを参照。)に服することとなり、1800年インド統治法(Government of India Act 1800)[7]に基づいて両地域はウィリアム砦の最高裁判所(Supreme Court)の管轄となった。

1825年インド給与・年金法(Indian Salaries and Pensions Act 1825)[8]により、東インド会社は、シンガポールとマラッカをプリンス・オブ・ウェールズ島(現在のペナン)の管理下に置くことができることとなった。同社はこれを行い、海峡植民地を創設した[9]
1826年から1867年まで:「インド時代」東インド館(ロンドン、リーデンホールにあった東インド会社の本店)。1817年ごろ。1869年に解体された。

制定法の6 Geo. IV c.85により、イギリス国王は、海峡植民地における司法運営について規定する特許状を発する権限を得た。東インド会社は国王に対し、かかる特許状を発して「プリンス・オブ・ウェールズ島、シンガポールおよびマラッカの植民地における、適正な司法運営ならびに居住者の人身、権利および財産ならびに公的収入の安全ならびに犯された死罪その他の犯罪の審理および処罰ならびに悪徳の抑圧のための裁判所および裁判官」を設置することを申請した。

申請は認められ、国王は第二司法憲章(Second Charter of Justice)を1826年11月27日に発した[注釈 1]。第二司法憲章によってプリンス・オブ・ウェールズ島・シンガポール・マラッカ法院(Court of Judicature of Prince of Wales' Island, Singapore and Malacca)が設置され、これに「正義と権利に従って判決および有罪宣告を発し宣告する…完全な権能および権限」が授与された。この重要な規定は、後に、イングランド法を海峡植民地に導入したものであると、司法上解釈された。この規定に対する現在の理解は、1826年11月27日において効力を有する全てのイングランドの制定法ならびにイングランドのコモン・ローおよび衡平法が海峡植民地(シンガポールを含む。)に適用されることとなったが、ただし、現地の状況に不適合であり、かつ、不正または抑圧を生まないようにすべく変更することができないものは除く、というものである[10]

第二司法憲章の規定によれば、当該法院は海峡植民地知事(Governor)および開廷地たる植民地の駐在参事官(Resident Councillor)ならびにレコーダー(Recorder)と呼ばれるもう1人の裁判官によって統轄されるものとされた。最初のレコーダーであるサー・ジョン・トーマス・クラリッジ(Sir John Thomas Claridge)について問題が発生した。彼は、知事および駐在参事官らが一切の司法事務を行うことを拒否するとの不満を述べ、そこで自らもまた裁判所の一切の事務を行うことを拒否することによって応じた。彼はまた、「書記官、通訳などの、完全で効率的で立派な裁判所の制度」が欠けていることを嘆いた。クラリッジは、プリンス・オブ・ウェールズ島の根拠地からシンガポールおよびマラッカに出張するはずであったが、出張の費用と準備に関する争いのため、彼はこれを拒否した。こうして、1828年5月22日、ロバート・フラートン(Robert Fullerton)知事は、ケニス・マーチソン(Kenneth Murchison)駐在参事官とともにシンガポールで最初の巡回裁判(assizes)を彼ら自身で行わねばならなかった。クラリッジは結果的に1829年にイギリスに呼び戻された[11]1826年11月27日の第二司法憲章の表題頁。1827年2月にロンドンにおいてJ.L.コックス(J.L. Cox)により公刊された版から。第二司法憲章の写しは元々は海峡植民地最高裁判所が所有していたもので、その写真複写は今でも最高裁判所図書館の蔵書に含まれている。

第二司法憲章は、プリンス・オブ・ウェールズ島の知事および参事官または(当然ながら)その他いかなる個人もしくは組織に対しても立法権を授与するものではない[12]


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