(州旗)
国歌: Negaraku(マレー語)
我が国
Majulah Singapura(マレー語)
進めシンガポール
1945年のシンガポールの地図
公用語英語
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宗教仏教
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中国の民俗宗教
首都シンガポール市
シンガポール (英語: Singapore, マレー語: Singapura)、正式にはシンガポール州 (英語: State of Singapore, マレー語: Negeri Singapura) は、1963年から1965年にかけて、マレーシア連邦に属する14の州のうちの1つであった。マレーシアは1963年9月16日に、マラヤ連邦と旧イギリス植民地であった北ボルネオ、サラワク、シンガポールが合併して成立した。これは、1819年にトーマス・ラッフルズが近代シンガポールを設立して以来、144年に及ぶイギリスの支配が終わった瞬間でもあった。合併当時、シンガポールは連邦内最小の州であった。
シンガポールとマレーシア連邦政府の指導者間では不信やイデオロギーの違いが拭えず、財政、政治、人種政策について対立することが多かったため、連邦は安定しなかった。シンガポールは税収の大部分を負担する代わりにマレーシアと共同市場化する約束を取り付けていたが、実際には大幅な貿易制限を受け続け、サバ州やサラワク州への融資ができない状態にあった。政治においては、マレーシアの統一マレー国民組織(UMNO)とシンガポールの人民行動党(PAP)が合意に反して互いの政治領域へ介入した[2]。その結果、1964年にはシンガポールで大規模な暴動が起こった。この暴動は、UMNOとその影響下にあるマレー語誌『ウトゥサン・マレーシア』が、シンガポールでマレー人のアファーマティブ・アクションを扇動したことに起因するとされる[3]。
対立の末、マレーシアのトゥンク・アブドゥル・ラーマン首相は、シンガポールを連邦から追放することを決定し、1965年8月9日、シンガポールは独立を果たし、シンガポール共和国となった[4]。
合併の背景.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}リー・クアンユー(左)とトゥンク・アブドゥル・ラーマン
1955年のデイヴィッド・マーシャル以降、シンガポールの政治家は何度もトゥンク・アブドゥル・ラーマンに連邦との合併を打診したが、その度に断られていた[5]。トゥンクは、連邦内の人種バランス、UMNOの地位、マレー人の政治的優位性を確保したいと考えていたが、中国人の多いシンガポールを含めると、新連邦では中国人人口(360万人)がマレー人人口(340万人)を上回ることになり、これを危惧したのである[6][7]。