シンエイ動画
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.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}テレビ朝日ホールディングス > テレビ朝日 > シンエイ動画

シンエイ動画株式会社
SHIN-EI ANIMATION Co., Ltd.
本社
種類株式会社
本社所在地 日本
188-0011
東京都西東京市田無町3丁目9番21号
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度43分45.58秒 東経139度32分30.9秒 / 北緯35.7293278度 東経139.541917度 / 35.7293278; 139.541917座標: 北緯35度43分45.58秒 東経139度32分30.9秒 / 北緯35.7293278度 東経139.541917度 / 35.7293278; 139.541917
設立1976年9月9日(シンエイ動画株式会社)
(創立:1965年12月〈Aプロダクション〉)
業種情報・通信業
法人番号9012701002249
事業内容

アニメ制作事業

国内外の映像ライセンスビジネス

コンテンツビジネス

代表者代表取締役社長 梅澤道彦
資本金1億円(2022年3月31日現在)[1]
発行済株式総数160,000株
純利益13億8100万円(2022年3月期)[1]
総資産99億3800万円
(2022年3月31日現在)[1]
従業員数105名(2022年3月31日現在)
決算期3月31日
主要株主テレビ朝日 100%
主要子会社SynergySP
関係する人物楠部大吉郎(創業者)
外部リンク ⇒www.shin-ei-animation.jp
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シンエイ動画株式会社(シンエイどうが、: SHIN-EI ANIMATION Co., Ltd.)は、日本アニメ制作会社。株式会社テレビ朝日の完全子会社で、日本動画協会正会員。
概要

代表作にテレビアニメの『ドラえもん』、『クレヨンしんちゃん』(テレビ朝日系)[注釈 1]、劇場用長編アニメ『ドラえもん』・『クレヨンしんちゃん』シリーズがある。そのほか、作画工程のみを他社から請け負う事業も行っており、2010年よりテレビ朝日の完全子会社となっている。シンエイ動画のルーツは1965年(昭和40年)12月に創立された有限会社エイプロダクション(通称:Aプロダクション)が前身で、Aプロダクションは東京ムービーと業務提携し、その制作担当として活動していた。
社名の由来

社名である「シンエイ」の由来は、楠部大吉郎のインタビューによると「新生Aプロ」、「新しいAプロダクション」という意味であり、新鋭という意味だとは説明していない[2][3]。発足時にシンエイ動画役員を務めた大塚康生も、自身の著書で新生Aプロという意味だと記している[4]。公式サイトでは「新しいAプロ=『新A』」、そして「アニメ界の『新鋭』でありたい」と伝えている[5]。新しく作られたロゴタイプは、シンエイの「A」に漫画風の頭と手を付けた、マスコットキャラクターの様なデザインとなっている。楠部デザインのこのキャラクターの名前は「エーちゃん」である[6]
歴史
Aプロダクション時代

Aプロダクション(以下Aプロ)の名前は、「最初の文字であるA、エースという意味などで何となくつけた」という(創立者・楠部大吉郎の弁)[2]

テレビアニメの黎明期、人形劇団出身者によって創立された東京ムービーがテレビアニメ『ビッグX』で経営危機に陥り、その失敗を踏まえて制作体勢を整えようとした。そこで当時の東京ムービーの社長であった藤岡豊が東映動画(現:東映アニメーション)から独立したアニメーター、楠部大吉郎に声をかけたことが創立のきっかけだった。楠部は、手始めに東映動画の新人アニメーターだった小林治をスカウトし、仕上げスタッフ数名とアニメーター研修生の中村英一を加えて、1965年12月に渋谷区代々木のマンションの一室を借りて事業を開始する。少し遅れて芝山努椛島義夫森下圭介が加わり、『オバケのQ太郎』の作画・仕上げ作業を受注する。

東京ムービーは営業を担当し、Aプロは制作担当として業務提携(資本関係なし)という形を取った。そして楠部の弟でもある楠部三吉郎が東京ムービーに入社し、制作管理スタッフとして兄の大吉郎を支えた。やがて東映動画も劇場長編アニメから新人を中心としたテレビアニメ制作へと方向転換を始めると、東映動画の長編スタッフ、中堅のスタッフが続々とAプロへ移籍して来る。これら移籍組の小山礼司、吉田茂承大塚康生宮崎駿高畑勲小田部羊一らアニメーターや演出家が東京ムービーの代表作である『巨人の星』『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』『ど根性ガエル』『荒野の少年イサム』『天才バカボン』など、数多くの作品を手掛けた。

作画・演出スタッフの他に美術部門・仕上げ部門も擁して、最盛時にはテレビアニメ5作品の同時制作を誇っていた。しかし1974年(昭和49年)、創立者の楠部大吉郎が病気で1年間療養したことや、更に東京ムービーの藤岡が日本市場への関心を失い、アメリカ市場開拓のために奔走しているうちに東京ムービー製作作品の本数が減少した。こうした背景と経営の危機を迎えたことで、実制作のみの体制に限界を感じた楠部は自社で企画・制作をする会社にするため1976年(昭和51年)の『元祖天才バカボン』を最後に東京ムービーとの提携を円満解消して独立した。こうしてAプロは1976年(昭和51年)9月9日に社名を「シンエイ動画株式会社」に変更し、改組した[7]
シンエイ動画時代

こうして再出発したシンエイ動画は社屋を田無市[注釈 2]北原町へと移転し、その際には仕上部門を切り離し作画スタッフも大幅に削減して経営をスリム化している。この時に独立した作画スタッフが設立したものが、亜細亜堂等のスタジオである。なお、小山が率いた美術部門は小山自身が独立した形で、早くに廃している。そして東京ムービーに在籍していた楠部三吉郎は専務取締役としてシンエイ動画へと移籍し、兄の大吉郎と共に経営を支えた。Aプロからシンエイ動画として独立した記念として東京ムービーが持っていた『ドラえもん』の映像化権を、藤岡から譲渡されたという逸話がある[4]

東京ムービーから独立後のデビュー作は、PR用の短編映画『草原の子テングリ』(1977年)であった。しばらくは他社のグロス請けなどをこなしたのち、1979年にはテレビアニメ『ドラえもん』を苦心の末、再びアニメ化にこぎ着ける。このシンエイ版『ドラえもん』の成功が、シンエイ動画の経営上の礎となった。旧社屋。窓側にドラえもんが陣取っており「ドラえもんビル」の愛称で親しまれた。現在は社会福祉法人檸檬会が運営する保育園「レイモンドたなしほいくえん」となっている(2006年12月撮影)。

そして業務拡大のため、1982年には社屋を田無市南町に移転。一部のスタッフは旧スタジオに残り、あにまる屋(現: エクラアニマル)を設立した。そして1980年代を中心に数多くの藤子不二雄作品や『月刊コロコロコミック』連載作品などを中心に次々とアニメ化し、これらはテレビ朝日系を中心に放映された。1992年には、田無市本町[注釈 3]に社屋を新築し移転。この青い塗装のビルは同社の経営を支えた『ドラえもん』に感謝を込め『ドラえもんビル』という愛称[8]がある。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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