シロンスク・ピャスト家(ポーランド語:Piastowie ?l?scy;ドイツ語:Schlesische Piasten)は、ポーランドのピャスト家の嫡系。ポーランド公ボレスワフ3世(曲唇公)の長男ヴワディスワフ2世(亡命公)を始祖とする。
最初の試練ヴワディスワフ2世の息子達に分割されたシロンスク公国シロンスク・ピャスト家の王冠のない黒鷲の紋章シロンスク・ピャスト家の黄金の鷲の紋章
ボレスワフ3世の遺言により、ヴワディスワフ2世はシロンスク公国を世襲領地として相続したほか、ピャスト家の長子としてクラクフ長子領をも与えられた。1145年、ヴワディスワフ2世はポーランド全域を支配下におさめようと試みたが弟達に敗北し、義兄のローマ王コンラート3世が王城を構えるテューリンゲンのアルテンブルクに亡命した。シロンスク及び長子領は、マゾフシェ公国を支配していた異母弟ボレスワフ4世(巻毛公)が支配することになった。
同年、コンラート3世はヴワディスワフを復権させようとしたが、失敗に終わった[1]。1157年、コンラート3世の後継者である神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世はボレスワフ4世を打ち破ったが、ボレスワフ4世が臣従したため、シロンスク問題が両者の和平条約で言及されることはなく、ヴワディスワフ2世はポーランドに帰国することのないまま、1159年に死んだ[2]。
1163年、フリードリヒ1世はボレスワフ4世に圧力をかけ、ヴワディスワフ2世の世襲領であるシロンスクを3人の息子ボレスワフ、ミェシュコ、コンラトに返還させた。シロンスクはポーランドの長子権(君主権)の下におかれたままだったが、シロンスク公家の兄弟達はフリードリヒ1世に年貢を支払わねばならなかった[3][4]。また、ポーランドの首位の公であるボレスワフ4世はヴロツワフ、オポーレ、グウォグフ、ラチブシュ、レグニツァなどシロンスクの最も重要な地域を支配したままだったが、シロンスクの諸公は1166年になってようやくこれらの地域を取り戻した[5]。
三兄弟はおそらく1172年までシロンスクを共同統治し、その後公国を分割相続した。ボレスワフ1世はヴロツワフ、オポーレ、レグニツァを、コンラトはジャガン、グウォグフ、クロスノを、そしてミェシュコ1世は最も小規模なラチブシュとチェシンをそれぞれ獲得した。ボレスワフ1世は聖職者になる予定のコンラトがフルダで学んでいる間その領地を代わりに支配し、コンラトが早死するとその遺領を自分の領国に併合した。一方のミェシュコ1世は、叔父のカジミェシュ2世(正義公、ボレスワフ4世の同母弟)からビトムとオシフィエンチムを与えられ、兄ボレスワフ1世の死後にオポーレをも入手して、自らの公国を拡張していった。
1202年、ミェシュコ1世と甥でボレスワフ1世の息子ヘンリク1世は、相手とその子孫を自分の公国に対する相続権から除外するという取り決めを行ったが、この取り決めはグルヌィ・シロンスク(高地シロンスク)が独立的な地位を得るうえで大きな役割をはたすことになった[6]。同年、ポーランドにおける長子権(君主権)が廃止され、シロンスクの諸公国は独立国家となった。
ポーランド王位回復の悲願シロンスクのヘンリク父子の王国
ヘンリク1世はポーランド国内の紛争に積極的に介入し、着実に自分の領国を拡げていった。ヘンリク1世は、1229年にクラクフ長子領を獲得する以前から、ヴィエルコポルスカを自分の支配領域に組み込むべく努力を続けていた。彼は13世紀の始め以後、ヴィエルコポルスカを領する大叔父ミェシュコ3世(老公)の子孫との争いを絶え間なく続けていた。1234年、ヘンリク1世はついにヴィエルコポルスカ地域の半分を支配下に収めた。幼少の諸公の後見人として、ヘンリク1世はオポーレとサンドミェシュの支配権をも手に入れた。
しかしその政治目標はさらに高みを目指していた。ヘンリク1世はただ自分の領国を拡げただけではなく、自分の支配領域を中心地域として、ポーランド王国を復活させようと企んでいたのである[7]。彼は1232年にマウォポルスカのクラクフ公となり、この権利によってポーランドの首位の公(君主)の称号を得た。