シロス島
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シロス県
Περιφερειακ? εν?τητα Σ?ρου
Δ?μο? Σ?ρου-Ερμο?πολη?

エルムポリ港
南エーゲにおける位置
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度27分 東経24度54分 / 北緯37.450度 東経24.900度 / 37.450; 24.900座標: 北緯37度27分 東経24度54分 / 北緯37.450度 東経24.900度 / 37.450; 24.900
ギリシャ
地方南エーゲ
中心地エルムポリ
面積
 ? 合計83.6 km2
人口(2011年)[1]
 ? 合計21,507人
 ? 密度260人/km2
等時帯UTC+2 (東ヨーロッパ標準時)
 ? 夏時間UTC+3 (東ヨーロッパ夏時間)
郵便番号841 xx
市外局番228x0
ナンバープレートEM

シロス島(シロスとう、ギリシア語: Σ?ρο? / Syros)は、ギリシャキクラデス諸島にある島。アテネの南東144kmに位置する。面積は83.6km2、人口は2万1507人(2011年国勢調査)[1]

主な町にエルムポリ、アナ・シロス、ヴァリがある。シロス島のみならずキクラデス諸島の中心であるエルムポリは、19世紀にはピレウスをしのぐ港湾都市であった。このほかガリッサス、フォイニカス、パゴス、マンナ、キニ、ポセイドニアの村落がある。
エルムポリ詳細は「エルムポリ」を参照エルンスト・ツィラーが設計したエルムポリ市役所と、ミアウリス広場のアンドレアス・ミアウリス像(ゲオルギオス・ボナノス作)

アンフィテアトルムの遺跡の上に建設されたエルムポリは、新古典主義の建物や古い豪邸、白亜の住宅が港に向かってなだれ落ちるような傾斜の急な町である。カフェが軒を連ね、ヤシの木が植えられたミアウリス広場にある市役所は、町のランドマーク的存在である。メタモルフォシス教会をはじめとしてコイミシス、アイオス・デメトリウス、三聖者、アナスタシス、エヴァンゲリストリア、アイオス・ニコラスなど、多くの教会がある。船長たちが住んでいたヴァポリアという界隈には、狭い通りに沿って新古典主義の豪邸が立ち並んでいる。
アノ・シロスアノ・シロスビーチから見たエルムポリ

アノ・シロスはエルムポリの北西のアイオス・ゲオルギオス(サン・ジョルジョ)の丘に、13世紀初頭のヴェネツィア人が建設したシロス島第2の町である。中世の雰囲気を残すこの町には、丘の頂上に続く通りに沿って色とりどりの扉の家々が並んでいる[2]。港から町の入口までの距離は、およそ1000mである。最も高い地点に位置する13世紀に建てられたカトリックの聖ゲオルギオス教会からは、近くのティノス島デロス島ミコノス島パロス島アンドロス島ナクソス島が一望できる。
歴史
古代

古くはシラ、のちにシロスと呼ばれた島の歴史は、フェニキア人の時代までさかのぼる。ホメロス叙事詩オデュッセイア』では豚飼いのエウマイオスの土地とされ、彼がこの島のことを詳らかに語っている。ピタゴラスを教えた、哲学者のペレキュデースの故郷でもある。当時はシロス(今日のエルムポリ)と、西海岸の今日のガリッサス付近の2か所に主要都市があった。

古代および初期キリスト教時代のシロス島は、重要な役割を果たさなかった[要出典]。最も小さな島にも司教がいた当時、シロス島には教区さえなかった。古代ローマ時代は、今日のエルムポリが島の中心部であった。
中世エルムポリのアイオス・ニコラス大聖堂エルムポリのアナスタセオス(復活)教会

古代末期になると、異民族とエーゲ海を数世紀にわたって荒らしまわった海賊の出現で、シロス島は衰退に向かった。キクラデス諸島のほかの島々とともに、中世は幾度となくシチリア人、アラブ人、トルコ人、ヴェネツィア人などの外来勢力の侵略によって壊滅した。

ビザンティン帝国時代は、キクラデス諸島のほかの島々とともにエーゲ海自治領に所属した。ヴェネツィア人とフランク人が組んだ1204年の第四回十字軍で、ビザンティン帝国が崩壊すると、マルコ・サヌードき下のヴェネツィア軍によって完全に征服され、それから1522年までナクソス公国の一部として留まった。この間に、アノ・シロスが建設された。

ラテン帝国時代はカトリック教徒が島民の過半数を占めたが、ギリシャ語も維持されていた。350年間にわたったナクソス公国による支配は、封建制の時代であった。
オスマン帝国の時代 - 教皇の島カトリックの聖ゲオルギオス大聖堂

16世紀までにエーゲ海はオスマン帝国の艦隊が掌握し、ヴェネツィア勢力は分断された。1522年、私掠船の船長だったバルバロス・ハイレッディンが島を征服した。オスマン時代、島は「シレ」として知られた[3]。しかし、地元当局とオスマン帝国との交渉の結果、キクラデス諸島には税の軽減や信教の自由など、大幅な特権が与えられた。同時に、フランスおよび教皇庁とオスマン当局とのあいだに成立した協定で、島のカトリック教徒はフランスと教皇庁の保護下に入った[要出典]。

シロス島には、ナクソスの属司教区であるカトリックのシラ教区が置かれた。すでにヴェネツィア人はこの島にカトリック司教区を置き、それは1525年までアテネ大司教区に所属していた。トルコ人に島が占領された16世紀から、ギリシア人はシロス島に首都大司教を置いた。ヨセフ[4] が判明している最も早い大司教で、それからシメオン(1594年没)[5]、イグナティウス(1596年没)[6] と続いた。島民はほとんどがカトリック教徒になった[7]

17世紀後半から、エーゲ海地域の経済は回復に向かい、18世紀から19世紀の変わり目に最高潮に達した。島々に認められた特殊な統治方式は、自治の発達を可能にした。19世紀初頭に海賊が減少しはじめると、東地中海の海上交通は次第に活発化した。
近代
ギリシャ独立戦争

そのきわめて重要な地理的位置から、シロス島は海の要衝として知られるようになった。その上、特殊な社会的・宗教的・制度的な条件も加わって、シロス島は1821年にはじまったギリシャ独立戦争において中立を表明し、ギリシャ反乱軍に参加することはなかった。このため、革命期には安全な避難先として、アナトリア半島ヒオス島、スペツェス島、プサラ島、アイヴァリ、スミルナ、キドニア、カソス島などから多くの難民が押し寄せた。
19世紀シロス島を描いた1904年の絵はがきエルムポリの大通りのひとつ

独立戦争が終わると、島は新生ギリシャ王国に編入された。平和と落ち着きを取り戻した島は、エーゲ海の十字路として、また西欧および地中海世界と東方とを結ぶ国際貿易の中心地として知られるようになった。1822年に最初のビルが、1824年に最初の正教会の教会とギリシャ最大のサナトリウムが建設された。また、ギリシャ国家の建設にともなって島のカトリック教徒はギリシャ化され、ラテン系の姓はギリシャ風に改められた(ヴッチーノをヴツィノスに、ルッソをルッソスに、ヴァコンディオをヴァコンディオスに、ダレッジョをダレジオスに、サルサをサルサプロスに、フレーリをフレリスになど)。

ほとんどがカトリック教徒であるシロス島民と、ほとんどがギリシャ正教徒である新来の難民の統合にあたって、問題は起こらなかった。現在、カトリック教徒の人口に占める割合は47%で、島民の過半数は正教徒であるが、双方とも手を取り合って平和的に共存している。教派間の結婚もよくある。

1831年のギリシャ憲法の制定においては、重要な役割を果たした。初代大統領であるイオアニス・カポディストリアス(ジョヴァンニ・カポディストリア)のもとで人口が1万3805人に達したエルムポリ市には、行政府が置かれた。商務裁判所、ギリシャで最も古い時期に設置された郵便局、保険代理店、初の公立学校、ギリシャ国立銀行の支店、画廊、博物館、図書館、エリート階級の社交クラブなどがあった。しかし、1854年のコレラにはじまる一連の疫病の流行は、不幸にもシロスを悲しみに陥れた。孤児院、貧民院、精神病院など、多くの公衆衛生、社会福祉事業に関わる慈善団体がこの時期に設立された。

船員や商人などの新参者の到来で島は活況を呈し、行政・文化の中心地となっていった。


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