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シルヴィ・ヴァルタン
Sylvie Vartan
2009年6月
基本情報
出生名
シルヴィ・ヴァルタン(Sylvie Vartan, ブルガリア語: Силви Вартан)
生誕 (1944-08-15) 1944年8月15日(79歳)
ブルガリア王国・イスクレツ
シルヴィ・ヴァルタン(Sylvie Vartan, 1944年8月15日 - )は、フランスの歌手。ジャンルはポップ、ロックの他にジャズなど。ライヴ・ステージが本領のエンターテイナー。代表曲は 「アイドルをさがせ」 「悲しみの兵士」「あなたのとりこ」 「哀しみのシンフォニー」など数多くあり、世界中にファンを持つ。
ブルガリア生まれで、8歳からフランス・パリで育つ。1961年リセ在学中の17歳でパリ・オランピア劇場に初出演。アメリカ音楽が台頭し始める中、ロック歌手としてデビュー。フランスで4000万枚のレコードとCDを売上げ、ブリジット・バルドーやカトリーヌ・ドヌーブよりも雑誌の表紙に登場したアーティスト[1]。芸歴60周年を迎えた2021年から3年を経た2024年1月に最終公演を発表。2024年11月公演と2025年1月追加公演を最後にステージ活動に幕を引く。1984年からアメリカ在住(ロサンゼルスとパリ半々の生活を送る)。 フランス音楽界に17歳でデビューし一躍若者のアイドルとなる。容姿端麗でハスキー・ボイスが際立つ。当初はアメリカン・ロックのフランス語カバーを歌う。1963年に19歳で初渡米し、アメリカ・ナッシュビルの歴史的なRCAレコーディング・スタジオで「La plus belle pour aller danser(踊りに行く一番の美人)」(邦題「アイドルを探せ」 )収録のアルバム第3作「Sylvie a Nashville」を録音。本作は1964年に世界的に大ヒット。1965年5月初来日。前月4月に20歳で21歳のロック歌手ジョニー・アリディと結婚、アイドル同士の結婚はファンのイメージを壊すとのマネージャーの忠告に[2]「アイドルという職業はない」と反論。 1970年から1980年代前半のパリ公演ロングランや国内外での長期公演ツアーの黄金期を経て、2004年までアクロバットなダンスやタップダンスなど様々なダンス・シーンを織り交ぜた豪華絢爛(けんらん)スペクタクルを興行。デビュー以来、新譜制作や公演を定期的に行い第一線で活動する。2021年に第50作目のオリジナル・アルバムを発表してパリ公演を開催。 シルヴィは祖父・父親・兄がピアノなど楽器演奏もする芸術一家に育ち、演劇学校進学とコメディ・フランセーズを夢見ていた。7歳年上の兄エディ・ヴァルタン(Eddie Vartan、2001年死去)はジャズ・トランペッター(当初ブルーノートで演奏していた)、ジャズ・バンドを持つ音楽家、かつRCAの音楽プロデューサーでもあった。1961年春、エディが担当したデュエット・レコード制作で、録音途中に突然降板したイギリス人女優の代役に立ったのがシルヴィの歌手デビューとなった。曲目は前任者の高音の声質を真似てハミングしたコミカルな歌「Panne d'essence(ガス欠)」(Floyd Robinson
略歴
来歴
8歳でフランス・パリへ移住)[3]にある産院)で誕生。1952年に家族でフランス・パリへ移住。ソフィアのフランス大使館プレス担当だったフランス国籍(フランス東部アルザス地方生まれ)のブルガリア人の父親と、ハンガリー人の母親を持つ。母親は、ハンガリー・ブダペストで今も残る壮大な教会堂を手掛けた著名な建築家の娘で、父親が第一次世界大戦直後にブルガリア当局から首都ソフィア復興のために請願されて一家でソフィアに移住した。ソフィアでフランス系電気会社を経営していたシルヴィの祖父と父親はともにフランス生まれで、父親はソフィアのフランス語学校で教育を受けている。2人ともフランス語に堪能でその文化に傾倒していたことからシルヴィはその影響下で幼少時代を過ごした。父親は多才で、オペラを愛しピアノを弾き作曲をし絵も描いたが、プロの彫刻家であったことから、政府の要請[4]でスターリンとゲオルギ・ディミトロフ(第二次世界大戦後成立したブルガリア人民共和国の初代首相)一緒のブロンズ像を制作している。1952年12月にビザを入手し共産体制へ変ったブルガリアからフランスへ両親と兄と家族4人でフランス・パリに亡命した。Sylvie Vartanの名について、アルメニア人の名字である「バルタニヤン」であるとする巷の一認識があるが、本人は自伝やインタビューで「祖父のルーツがアルメニアに遡るが家族の姓はVartan」[5]と語り、Sylvie Vartanは本名(出生名)であると明言。
1961年 / 初レコーディングとオランピア劇場
偶然参加したシルヴィには滑稽(こっけい)極まりない作品に見えたこの歌は意外なヒットとなり同年12月にジルベール・ベコーのパリ・オランピア劇場公演第一部に相手役のジョルダンと招待されて初めて観客の前で歌う。この一寸の出演は伝説のオランピア劇場支配人ブリュノ・コカトリックス (Bruno Coquatrix) の目に止まり、数週間後のヴァンス・テイラー (Vince Taylor) 公演の第一部出演を依頼される。この公演にシルヴィは初めてステージ衣装を作って臨み「Quand le film est triste(Sad movie makes me cry、悲しきスクリーン)」などを歌う。1962年5月ベコーの国内ツアーに参加するが、娘の芸能界入りに特に猛反対だったシルヴィの母は巡演に出るには兄エディの付添いを条件とした。「悲しきスクリーン」 を録音した時のことを先の「ガス欠」のソングライターでもあるジョルジュ・アルベ (Georges Arber) は「シルヴィには既に彼女特有の歌い方があった。その時に私は彼女は成功すると分かった。とにかく彼女はその可能性を持っていた」[6]と評した。
音楽的嗜好はジャズ音楽家の兄エディの影響で、10代のデビュー前、カウント・ベイシー、 マイルス・デイヴィス、オスカー・ピーターソンなどのオランピア劇場公演を兄と一緒に鑑賞。また エラ・フィッツジェラルド、モダン・ジャズ・カルテットなどを聴く。ジャズ・ロックンロール・R&Bなどアメリカ音楽に魅了され、思春期に好んで聴いたのは、エルヴィス・プレスリー、レイ・チャールズ、ビル・ヘイリー、リトル・リチャード、ブレンダ・リー。舞台俳優を夢見ていた文学少女のリセエンヌはこうして奇妙にも歌手の道を辿る。1970年代に入るとフランスはシルヴィ・ヴァルタンをそのショーアップされたエネルギッシュなステージぶりから「show-woman americaine(アメリカ的Show-woman)」と形容するようになる。スタジオ活動よりライヴ・ステージ志向が強いのはこの当初の舞台俳優への志が源となっている。デビュー当時は常に作曲家の兄エディ率いるエディ・ヴァルタン・オーケストラが同行して妹シルヴィを支えた。
1960年代 / 初来日と世界ツアー1962年前半