シルヴィオ・ベルルスコーニ
Silvio Berlusconi
欧州人民党の2018年党大会で撮影
第50・56・57・59代 首相
(閣僚評議会議長)
任期
(第1次)1994年5月11日 - 1995年1月17日
(第2次)2001年6月11日 - 2005年4月23日
(第3次)2005年4月23日 - 2006年5月17日
(第4次)2008年5月8日 ? 2011年11月12日
大統領オスカル・ルイージ・スカルファロ
カルロ・アツェリオ・チャンピ
ジョルジョ・ナポリターノ
副首相ジュゼッペ・テレーラ
ロベルト・マローニ
シルヴィオ・ベルルスコーニ(イタリア語: Silvio Berlusconi、イタリア語発音: [?silvjo berlu?sko?ni] ( 音声ファイル)、1936年9月29日 - 2023年6月12日)は、イタリアの政治家、実業家。建設業およびメディア経営で成功を収めた実業家で約78億ドル(世界第118位)の総資産を持つ世界有数の資産家として知られる[2]。また企業経営から政治家に転身してタンジェントポリ後の政界再編で頭角を現し、閣僚評議会議長を4期(第50・56・57・59代)務めている。労働騎士勲章(英語版)を1977年に授与されており、支持者からはイル・カヴァリエーレ(Il Cavaliere)と呼ばれる。
スポーツ界においてサッカーに情熱を注ぎ、母国の名門クラブ・ACミランのオーナー兼会長を長きにわたり務めた。就任当初に低迷していたチームを立て直し、1990年代に黄金期を迎え世界屈指の強豪クラブに昇華させている[3]。 ベルルスコーニは元々は実業家であり、戦後イタリアで1960年代から1980年代にかけて建設業と放送事業で財を成した企業家であった。特に後者については「イタリアのメディア王」と呼ばれるほどの権勢を誇り、国内の民放局を殆ど独占しているとされている。またこの頃、反共団体で多くのテロリズムにも関わった「ロッジP2」の会員となっている。 90年代から始まったタンジェントポリ後の政界再編ではフォルツァ・イタリアを結党、有力政治家として冷戦後の政界を主導した。ベルルスコーニ政権はファシスト政権の独裁者ベニート・ムッソリーニ、および1900年代前半に5期にわたり王国宰相を務めたジョヴァンニ・ジョリッティに次ぐ長期政権をイタリア政界で樹立した。それ以前は共和制移行後、最初に首相となったアルチーデ・デ・ガスペリが戦後イタリアにおける長期政権として知られていたが、ベルルスコーニの首相在職期間はガスペリを上回っている。 政界再編の混乱で一挙に政権を獲得したが短命に終わった第一次政権(1994年-1995年)、政権奪還後の第二次政権(2001年-2006年)、そして二大政党制を迎えての第三次政権(2008年-2011年)と三度の政権での首相経験年は9年を超える。また、サミットを議長国首脳として3回主催した唯一の首脳でもある。 ベルルスコーニは自らの事業の一角を占める新聞・テレビ・インターネットなどを通じて有利な政治活動を行っているとしばしば非難を受けている。また首相としての権限を使用してメディア統制を進めたともされており、DDL intercettazioni(通信傍受法)可決に反対してイタリア語版ウィキペディアが一時更新を停止する事件が起こっている。汚職疑惑、性的スキャンダルなどの問題行為も取り沙汰されている[4]。 1936年に、王政時代のイタリア王国ロンバルディア州ミラノ市のイゾラ・ガリバルディで、中流家庭の[5]ルイジ・ベルルスコーニ (Luigi Berlusconi) とローザ・ボッシ (Rosa Bossi) との間の長男として生まれた。兄弟姉妹にパオロ・ベルルスコーニ、フランチェスカ・ベルルスコーニらがいるとされている。父親は小学生の時にパペット劇団を結成して収入を得るなど、子供のころから商才は際立っていた[5]。母親はピレリの役員秘書を務め、また父親はその後ラジーニ銀行の取締役になった。 サレジオ会系の寄宿学校「リチェオ・サンタブロージオ」在学中に第二次世界大戦と王政廃止を経験している。卒業後にミラノ大学で法律学を学び、広告業における法律を専攻分野にして1961年に卒業資格を得ている。
概要
経歴
生い立ち