ショットガンハウス
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ニューオーリンズのショットガンハウス。ジャズトランペッター、レッド・アレン(1906? - 1967)の旧居ニューオーリンズのアップタウンのショットガンハウス。キャメルバック(一部二階建て)でガレージ付き

ショットガンハウス(英語:shotgun house)は、アメリカ合衆国南部に多数建設された、狭小な長方形平面を持つ住宅形式である。
概要

通常、間口は3.5メートルを超えることはなく、正面と裏手に扉がある。南北戦争1861年-1865年)の終戦から1920年代にかけてのアメリカ南部においては、最も一般的な形式であった。別名として、ショットガンシャック(shotgun shack)、ショットガンハット(shotgun hut)、ショットガンコテージ(shotgun cottage)、レールロード・アパートメント(railroad apartment)などがある。ルイジアナ州ニューオーリンズで発達した住宅形式ではあるが、遠くイリノイ州シカゴフロリダ州キー・ウェストカリフォルニア州でも存在が確認されており、アメリカ南部の小都市に最も多く分布している[1]。ショットガンハウスは、もともと中流階級の需要を受けて建設されたものであったが、20世紀の中ごろには貧困層のシンボルとなった。その歴史的価値については判断の分かれるところではあるが、一部が歴史的保存や高級化(ジェントリフィケーション)の恩恵を受けて残される一方で、多くが再開発の波に飲まれ、取り壊されている。

ショットガンハウスは、3?5室が一列に配される平面構成となっており、廊下玄関ホールなどを有しない。ショットガンハウスの語は1903年から存在するが、一般に広まったのは1940年頃のことで、由来は以下のようにいくつかある。

玄関からショットガン(散弾銃)を撃つと、その弾丸(散弾)は各室の同じ側に設けられたドアを通って住宅を貫通し、裏口から外に飛び出すという意味で用いられた

使い古された木箱を建材にしたものが多く、散弾の箱もその一つだったから

ベナン南部のフォン族の言葉で「集まる場所」を意味する「トゥ・ガン」など、アフリカの言葉が転訛したものであるという説[2]

ショットガンハウスには、上記以外の部屋や設備を持つものも見られるが、多くは後年になって居住者が必要としたために改造、増築したものである。最も古い時代のショットガンハウスは、室内に水道設備を備えていなかった(全てのショットガンハウスに室内水道設備がなかったわけではない)。中には、玄関ホールを設けるために内部を改装し、全体の間取りに手を加えているものもある。「ダブルバレル(二つの銃身)」と呼ばれるショットガンハウスは、二つの棟が戸境壁で隔てられた形状になっており、敷地内により多くの戸数が建てられる。「キャメルバック(ラクダの背中)」とよばれるショットガンハウスは、ファサードからセットバックした位置に、2階部分を持つ[3]
歴史ケンタッキー州ルイビルのショットガンハウスの図面

ショットガンハウスは、自動車が普及し、ビジネスや商業などの中心地から遠く離れた場所に多くの人々が住むようになる以前は、最も一般的な住宅形式であった。住宅敷地の区画面積は、密集の必要性から小さく抑えられ、間口の大きさは最大で9メートルであった。製造業の雇用増加を期待して、アメリカ国内外からの都市へ人口が流入し、都市中心部では高い住宅需要が発生した。ショットガンハウスが建設された背景には、アメリカ北東部の都市でテラスハウスが相次いで建設された時期と同様の需要があったといえる。地域的にある程度まとまった数のショットガンハウスが類似した外観となっているのは、同時に、同一の施工者によって建設されたためである[3]

ニューオーリンズをはじめとする都市において、ショットガンハウスが他の形式を凌駕する人気を博した理由として、当時の財産税が敷地の幅に応じて課されていたためとする説が有名である[4]。ショットガンハウスの形状は、財産税を最小とするために決められたとするこの説は、京町家の成立過程に非常に類似するものである。しかしながら、建設費自体を抑える必要があったこと、またエアコンの登場するはるか以前に室内を涼しく保つには、風通しのよい間取りとする必要があったことを理由とする説のほうが、前述の説よりも説得力があると考えられている。後に多くのバリエーションを生んだことからもわかるように、建設当初から状況が変化しても柔軟な適応が可能であることが、普及のひとつの要因となったと考えられる[5]

民間伝承研究者でもあるジョン・マイケル・ヴラッハ教授は、ショットガンハウスの建築形式と名称の起源をたどると、1700年代あるいはそれ以前のハイチアフリカにたどり着くことを示唆している。ショットガンハウスの語源は、アフリカの、ベナン南部のフォン族の居住地域の言語で「集まる場所」を意味する「トゥ・ガン」である可能性がある。ニューオーリンズにおいて、おそらくアフリカ系奴隷によって使われたこの表現が、聞き間違えられ、再解釈されて「ショットガン」となったと推察される[5]。他に、よく言われている説として、全てのドアを開け放した状態で玄関からショットガンを撃つと、裏口に突き抜けるからという説、ショットガンの弾を梱包した木箱を材料としたという説などが存在する。ショットガンハウスの語源をアフリカに求める説は、ニューオーリンズの歴史に深く結びついている。1803年にはニューオーリンズに住む自由黒人は1,355人であったが、1810年には4,500人であった白人の人口を大きく上回り、10,500人に急増する。人口増加に伴う住宅需要に対応するために集まってきた建築施工者たちもまた、ハイチ経由で移住してきた黒人であったことがその理由である。彼らが新築した住宅が、その故郷のスタイルに則っていたことは想像に難くなく、事実、ポルトープランスの住宅ストックの15%をはじめとして、ハイチにのこる当時の住宅の多くは、ニューオーリンズのシングルショットガンハウスに酷似している[5]

ショットガンハウスは、ニューオーリンズで大いに普及した。1830年代に築15?20年と思われるショットガンハウスが売りに出されたという史料が存在するが、少なくとも1832年にはこの建築形式は成立していたと考えられる[5]。 ショットガンハウスはアメリカ南部の都市部のいたるところに建てられた。間口が小さいために前面道路に接する戸数を最大限に増やすことができるだけでなく、風通しが頗る良好であることが、都市部に適していたためである。今日でも、南部には住宅ストックの10%以上をショットガンハウスが占める都市がいくつか存在する[6]

この種の住宅に「ショットガンハウス」の語を初めて用いた例は、アトランタ・ジャーナル・コンスティチューション(The Atlanta Journal-Constitution)1903年8月30日版に見られる次のような記事である。『シンプソン通り交差点の鉄道車両基地そば、3室を有する住宅2棟を月12ドルで、前払い可能な優良テナントに賃貸します。売却価格は定期払いで1,200ドル、現金で1,000ドル、月々15ドル。投資銀行貯蓄銀行の組み合わせ可。掘立小屋(shack)ではありません。修繕状態良好な良質のショットガンハウスです。』この広告ではショットガンハウスを労働者階級の住まいと想定しているようだが、1929年テネシー州では、裁判所で「ショットガンハウスの入居者は最貧層に他ならない」という内容の発言がなされている[7]世界恐慌以降、建設されるショットガンハウスはほとんどなく、既存建物は取り壊される傾向にあった。20世紀後期には、ショットガンハウスを改修して、住宅やそれ以外の用途に用いた地域もあった[3]

ショットガンハウスは、もともと賃貸用不動産として建設されることが多く、製造業の中心地や鉄道拠点の近くに建てられ、労働者の住宅として供された。工場経営者は従業員社宅としてショットガンハウスを建設し、月数ドルの低賃料で貸し出すことが多かった[3]。 しかしながら20世紀も後期になると、ショットガンハウスを自宅として所有するケースが多く見られるようになる。例えばニューオーリンズロウワー・ナインス・ワードの住宅(その多くがショットガンハウスである)の85%が持ち家であったという統計がある[8]
特徴ショットガンハウスの典型的な間取り

ショットガンハウスの各室は、正面から奥に向かって一列に並んでおり、手前がリビングルーム、その次に寝室が1室か2室あり、一番奥が台所になっているという構成が一般的である。初期のショットガンハウスには浴室がなかったが、後には小さな脱衣場つきの浴室を一番奥の部屋に設けたり、台所の横に増築したりするものも見られるようになる。中には2室しかないショットガンハウスというのも存在している[3][9]


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