シュールレアリズム
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}「シュール」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「シュール (曖昧さ回避)」をご覧ください。
シュルレアリスムの出版社「オ・サン・パレイユ」で開催されたマックス・エルンスト展(1921年5月2日):左から同社創設者ルネ・イルソム、バンジャマン・ペレ、セルジュ・シャルシューヌ
(フランス語版)フィリップ・スーポー(上部)、ジャック・リゴー(フランス語版)(逆さま)、アンドレ・ブルトンシュルレアリスム[注 1](仏: surrealisme[注 2]、英: surrealism[注 3])は、戦間期にフランスで起こった作家アンドレ・ブルトンを中心とする文学・芸術運動である。すでに1919年から最初のシュルレアリスムの試みである自動記述が行われていたが、1924年にブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表し、運動が本格的に始まった。ブルトンはこの宣言でシュルレアリスムを「口頭、記述、その他のあらゆる方法によって、思考の真の動きを表現しようとする純粋な心的オートマティスム。理性による監視をすべて排除し、美的・道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り」と定義した[1]。シュルレアリスムはジークムント・フロイトの精神分析とカール・マルクスの革命思想を思想的基盤とし、無意識の探求・表出による人間の全体性の回復を目指した。ブルトンのほか、ルイ・アラゴン、ポール・エリュアール、フィリップ・スーポー、バンジャマン・ペレらの詩人を中心とする文学運動として始まったが、ジョルジョ・デ・キリコ、マックス・エルンストらの画家やマン・レイらの写真家が参加し、1920年代末頃からスペインやベルギーからもサルバドール・ダリ、ルイス・ブニュエル、ルネ・マグリット、カミーユ・ゲーマンス(フランス語版)らが参加。分野もダリとブニュエルの『アンダルシアの犬』に代表される映画などを含む多岐にわたる芸術運動に発展した。
一方、フランスのシュルレアリスムが日本において前衛芸術として発展を遂げたのは1930年代以降のことであり、以後、ブルトンが提唱した無意識の探求という本来の目的から離れ、「現実離れした奇抜で幻想的な芸術」という意味で「シュール」という日本独自の概念・表現が生まれることになった[2]。
歴史1910年代に詩集『アルコール
(英語版)』(1913年)によってフランス詩を大きく変え[3]、美術評論『キュビスムの画家たち(英語版)』(1913年)によってピカソ、ブラック、ピカビア、デュシャンらの前衛芸術家を支持したギヨーム・アポリネールは、アンドレ・ブルトン、フィリップ・スーポー、ピエール・ルヴェルディら、後にシュルレアリスト運動を牽引することになる若手作家をつなぐ役割を果たした[4]。1917年に初演され、一大スキャンダルを巻き起こした、ジャン・コクトーの台本、エリック・サティの音楽、パブロ・ピカソの舞台芸術、レオニード・マシーンの振付による前衛バレエ『パラード』を支持し、プログラムを書いたのもアポリネールであった。彼はこのプログラムで初めて「シュルレアリスム」という言葉を用いた[5]。さらに、翌1918年にはシュルレアリスム演劇の先駆となった彼自身の戯曲『ティレジアスの乳房』が上演された[6]。シュルレアリスム運動を牽引したブルトン、アラゴン、エリュアール、スーポー、バンジャマン・ペレらは1910年代末から1920年代初頭にかけて起こった文学・芸術運動ダダイスムにも参加していた。ブルトン、アラゴン、スーポーが創刊した「反文学」の文学雑誌『リテラチュール(文学)』には、1920年にトリスタン・ツァラをはじめとし多くのダダイストが寄稿し、ダダイスムの機関誌の役割を担っていたが[7]、1921年頃からブルトンとツァラが対立し、運動内部の分裂につながった。根本的には、既成の秩序を破壊し、すべてを無意味化しようとするダダイストと、むしろ無意味、あるいは従来無意味とされてきた夢や無意識のなかに意味を見いだそうとする後のシュルレアリストの思想的な対立であった[8]。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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