シュルーズベリー伯爵(第2期)
Earl of Shrewsbury
兼 タルボット伯爵
兼 ウォーターフォード伯爵
紋章記述Arms:Quarterly: 1st and 4th, Gules a Lion rampant within a Bordure engrailed Or (Talbot); 2nd and 3rd, Azure a Chevron between three Mullets Or (Chetwynd).Crests:1st: on a Chapeau Gules turned up Ermine a Lion statant with the tail extended Or (Talbot); 2nd: a Goat's Head erased Argent attired Or (Chetwynd) Supporters:On either side a Talbot Argent.
創設時期1442年5月20日
創設者ヘンリー6世
貴族イングランド貴族
初代初代伯ジョン・タルボット
現所有者22代伯チャールズ・チェトウィンド=タルボット
シュルーズベリー伯爵(シュールズベリーはくしゃく、英語: Earl of Shrewsbury)は、イングランド貴族の伯爵位。地名の Shrewsbury には「シュルーズブリ [??ru?zbri] ( 音声ファイル) 」と「シュロウズブリ [??ro?zbri] ( 音声ファイル) 」の二通りの発音があるが、爵位としての発音は後者である。
過去に2度創設されており、現存する2期目のシュルーズベリー伯爵位は、百年戦争のイングランド軍司令官ジョン・タルボットが1442年に叙されたのに始まる。 征服王ウィリアム1世の側近としてノルマン・コンクエストに尽力したノルマン人ロジャー・ド・モントゴメリー
歴史
第1期のシュルーズベリー伯爵
第2期のシュルーズベリー伯爵百年戦争・カスティヨンの戦いで戦死する初代シュルーズベリー伯ジョン・タルボット
1420年から百年戦争に従軍してイングランド軍の指揮をとった第7代タルボット男爵(英語版)・ブラックミアの第10代ストレンジ男爵ジョン・タルボット (1390頃?1453)が、1442年5月20日に叙されたのが現在まで続く第2期のシュルーズベリー伯爵位の創設である[3][4]。1444年にイングランドに帰国し[5]、1446年7月17日にはアイルランド貴族爵位のウォーターフォード伯爵にも叙せられている[4]。1452年にガスコーニュ奪還のために遠征軍司令官として再度フランスに赴いたが、カスティヨンの戦いで敗死した[5]。
その息子の2代伯ジョン (1413?1460) は、母モード・ネヴィルからファーニヴァル男爵(英語版)を継承した[4]。薔薇戦争において1460年7月10日のノーサンプトンの戦いで国王ヘンリー6世軍の側で戦ったためにヨーク派に敗れて敗死した[6][7]。
その孫の4代伯ジョージ(英語版)(1468?1538) は、1506年から1538年にかけてテューダー朝のヘンリー7世とヘンリー8世の王室家政長官(英語版)を務めた[4]。1513年にはフランス侵攻軍に中将として従軍。1520年の金襴の陣にも出席した[4]。
その孫の6代伯ジョージ (1528?1590) は、ノーサンバーランド公ジョン・ダドリーによるジェーン・グレイ擁立に手を貸したが、メアリー1世に許しを乞うて赦免された[8]。エリザベス1世の下でも信任を維持した[9]。1568年にイングランドに亡命してきた元スコットランド女王メアリー・ステュアートの監視者を1584年まで務めた[4]。1571年のリドルフィ陰謀事件(英語版)の際にはメアリー・ステュアートの尋問にあたり[10]、第4代ノーフォーク公トマス・ハワードの裁判の判事も務めた[11]。1573年には軍務伯に就任[4]。1586年10月のバビントン事件(英語版)ではメアリー・ステュアートの裁判の判事の一人となっている[12]。