シュリーブポート_(ルイジアナ州)
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シュリーブポート市
City of Shreveport

シュリーブポートのダウンタウンとカジノ


市旗

愛称 : Ratchet City (ラチェットの街)[1]
標語 : "The Next Great City of the South (南部の次の偉大な都市)"
位置

カドー郡内の位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯32度30分53秒 西経93度44分50秒 / 北緯32.51472度 西経93.74722度 / 32.51472; -93.74722
歴史
創設1836年
行政
アメリカ合衆国
 州ルイジアナ州
 郡カドー郡ボージャー郡
 市シュリーブポート市
地理
面積 
  市域312.9 km2 (120.8 mi2)
    陸上  272.9 km2 (105.4 mi2)
    水面  40.0 km2 (15.4 mi2)
標高58 m (190 ft)
人口
人口(2020年現在)
  市域187,593人
  備考[2]
その他
等時帯中部標準時 (UTC-6)
夏時間中部夏時間 (UTC-5)
公式ウェブサイト : ⇒http://www.shreveportla.gov

シュリーブポート(Shreveport)は、アメリカ合衆国ルイジアナ州の都市。カドー郡の郡庁所在地である。人口は18万7593人(2020年)。州内ではニューオーリンズ、州都バトンルージュに続く第3の都市である。バトンルージュの北西370km、州の北西端に位置している。レッド川対岸のボージャーシティと共に形成している都市圏は3郡にまたがる。

シュリーブポートは、1836年に入植地開発会社シュリーブ・タウン・カンパニーによって創設された[3]テキサス共和国へと至るテキサス・トレイルが、航行可能になったレッド川を渡る地点に位置していた。南北戦争中には、シュリーブポートには南軍ミシシッピ川流域管区の本部が置かれ、バトンルージュおよびオペルーサス北軍に占領された後はルイジアナ州の州都も置かれた。20世紀初頭に近郊で油田が発見されると、その中盤までは石油産業の街として栄えたが、1960年代に入ると石油会社が街を離れ出し、衰退していった。その後、1990年代中盤以降は、レッド川両岸や船上のカジノを中心とした観光都市としての再生が進められてきた。その一方で、21世紀に入ると、近郊でアメリカ合衆国本土最大のシェールガス埋蔵量を有すると推定されるヘインズビル頁岩層が見つかり、シェールガスの採掘を開始、シュリーブポートはその中心地としても再生するものと期待されている。

シュリーブポートはテキサス州との州境から東へ30km、アーカンソー州との州境から南へ55kmに位置しており、アーカンソー・ルイジアナ・テキサスの3州にまたがる、Ark-La-Tex と呼ばれる地域の商業、および文化の中心地になっている。
歴史
初期ヘンリー・ミラー・シュリーブ

シュリーブポートは1836年、テキサス・トレイルがレッド川を横切る渡津に創設された。それまで、レッド川にはおよそ290kmにわたって流木の塊が天然の浮島を形成し、船舶の航行を妨げていたが、陸軍長官ルイス・カスの命を受けた蒸気船の船長ヘンリー・ミラー・シュリーブが工兵隊を率いて、自らの手で改造した蒸気船ヘリオポリス号で流木を除去し、レッド川を航行可能にした。その後、この地に創設された村、および入植地開発会社はシュリーブの功績を称えて、それぞれシュリーブタウン、シュリーブ・タウン・カンパニーと名付けられた[3]

シュリーブタウンの村が創設された地は、その前年の1835年に、ネイティブ・アメリカンのカドー族がシュリーブ・タウン・カンパニーに売却した土地であった。1838年には、ナケテシュ郡から分離独立する形でカドー郡が創設され、シュリーブタウンにその郡庁が置かれた。翌1839年3月20日には、シュリーブタウンは現称のシュリーブポートに改められ、町として正式に法人化された。初期のシュリーブポートの町は、レッド川から西へ向かう通りと、その支流の1つであるクロス・バイユーから南へ向かう通りとでそれぞれ8つずつに区切られ、8x8=64ブロックに区画された[3]

シュリーブポートはすぐに、綿花や農産品を主とした蒸気船交易の中心地になった。また、州内の他の場所ではそれほど奴隷取引が広まってはいなかったが、シュリーブポートには奴隷市場もあった。レッド川には大量の蒸気船が航行し、港では荷役が船荷の積み上げ・下ろしを行っていた。1860年頃には、シュリーブポートはその市域内に自由民約2,200人(公式統計はこの数値)、奴隷約1,300人の人口を数えた。
南北戦争

南北戦争中、バトンルージュおよびオペルーサスが共に陥落すると、シュリーブポートは1863-65年にかけてルイジアナの州都になった。シュリーブポートは南北戦争が終結するまで南軍の牙城で、南軍ミシシッピ川流域管区の本部が置かれていた地であった。市の北西にはアルバート・シドニー・ジョンストン砦が築かれた。この地域はあまり開発が進んでいなかったため、この砦の周辺は比較的平穏であった。

1864年4月、北軍レッド川方面作戦でシュリーブポートに侵攻、占領しようと試みたが、シュリーブポートの南、マンスフィールドでの戦闘(マンスフィールドの戦い)で南軍のリチャード・テイラー率いる部隊に敗退し、その目的は果たせなかった。

東部と物理的に隔絶されていたことから、ミシシッピ川流域戦線ではロバート・E・リーが1865年4月に降伏した後も戦いが続いていた。ミシシッピ川流域戦線で南軍最後の司令官が降伏したのは同年5月26日であった。連合国大統領であったジェファーソン・デイヴィスは首都リッチモンドからシュリーブポートに逃れてミシシッピ川を下ろうとしたが、その道中、ジョージア州アーウィンビルで北軍に捕らえられた[4]

戦時中、シュリーブポートの女性たちははるか東で戦う兵士たちをできる限り最大限に補助した。歴史家ジョン・D・ウィンターズは著書 The Civil War in Louisiana (ルイジアナにおける南北戦争)の中で、次のように著している。

The women of Shreveport and vicinity labored long hours over their sewing machines to provide their men with adequate underclothing and uniforms. After the excitement of Fort Sumter, there was a great rush to get the volunteer companies ready and off to New Orleans... Forming a Military Aid Society, the ladies of Shreveport requested donations of wool and cotton yarn for knitting socks. Joined by others, the Society collected blankets for the wounded and gave concerts and tableaux to raise funds. Tickets were sold for a diamond ring given by the mercantile house of Hyams and Brothers... [5]

(訳)シュリーブポートとその周辺の女たちは、男たちに十分な軍服や下着を供給するために、ミシンに向かって長時間働いた。サムター要塞の戦いの後、志願兵の隊を準備させ、ニューオーリンズへと送り出す動きが大きく早まってきている... シュリーブポートの女たちは軍共済会を結成し、靴下を編むための毛糸や綿糸の寄付を募った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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