シュリースハイム
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紋章地図
(郡の位置)

基本情報
連邦州:バーデン=ヴュルテンベルク州
行政管区:カールスルーエ行政管区
郡:ライン=ネッカー郡
緯度経度:.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯49度28分25秒 東経08度40分33秒 / 北緯49.47361度 東経8.67583度 / 49.47361; 8.67583座標: 北緯49度28分25秒 東経08度40分33秒 / 北緯49.47361度 東経8.67583度 / 49.47361; 8.67583
標高:海抜 126 m
面積:31.61 km2
人口:

14,897人(2021年12月31日現在)[1]
人口密度:471 人/km2
郵便番号:69198
市外局番:06203, 06220
ナンバープレート:HD
自治体コード:

08 2 26 082
行政庁舎の住所:Friedrichstrase 28-30
69198 Schriesheim
ウェブサイト:www.schriesheim.de
首長:ハンスイェルク・ヘーファー (Hansjorg Hofer)
郡内の位置

地図

シュリースハイム (ドイツ語: Schriesheim, ドイツ語発音: [??ri?sha?im] ( 音声ファイル)[2]) はドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州ライン=ネッカー郡に属す市。シュリースハイムを象徴する建造物にシュトラーレンブルク城がある。地元の方言では、この街をシュリーゼ(Schriese)と呼ぶ。
地理
位置

シュリースハイムは、オーデンヴァルトから流れるカンツェルバッハ川がシュリースハイマー渓谷に至る西の入り口、ベルクシュトラーセ沿いに位置する。市域の西部はオーバーライン地溝帯にまで広がっている。
市の構成アルテンバッハ地区

シュリースハイム市は、シュリースハイム、アルテンバッハ、ウアゼンバッハの3つの市区からなる。これらは、いずれもほぼ同じくらいの面積で、以前はそれぞれ独立した自治体であった。公式な名称は、シュリースハイム市区を除いては、「シュリースハイム、シュタットタイル ○○」(シュタットタイル = 市区)と表記する。[3], [4]

アルテンバッハはオーデンヴァルトの東7kmのオーデンヴァルト内に位置する。カンツェルバッハ川の上流にあたるが、ここでは、この川は村の名前と同じアルテンバッハ川と呼ばれる。アルテンバッハから北西に3km、やはりオーデンヴァルトの中、ウアゼンバッハがある。同名の川に面しているが、この川はアルテンバッハでカンツェルバッハ川に注ぐ。
地質

特筆すべきは、市内エルベルク地区の斑岩の露頭であり、これは昔採掘されていた。[5]また、ブラーニヒ地区では重晶石硫酸鉄が採掘されていた。
市域の広がり

郷土史家はシュリースハイムがラーデンブルクと並んで、この地域で最も古い集落に数えられると推定している。

市域の面積は3,162haを超える。このうち、13.1%が住宅地および交通用地(市街地)、27.7%が農業用地、58.6%が森林である。[6]
隣接する市町村

シュリースハイムは、西はラーデンブルク、北はヒルシュベルク・アン・デア・ベルクシュトラーセ、北東はヴァインハイム、東はハイリヒクロイツシュタイナハおよびヴィルヘルムスフェルト、南東はハイデルベルク、南はドッセンハイムと境を接している。
気候

シュリースハイムはハイデルベルクに似て、ドイツで最も暖かい地域に属する。降水量は西から東に行くにつれ多くなり、年間650mmから800mmの間で推移する。最寄りのハイデルベルクの測候所における、1971年から2000年の平均気温は11.1℃、平均年間降水量は745mmである。最も暖かい月は7月で平均気温20.1℃、最も寒いのは1月で平均2.5℃である。[7]

1971年?2000年の月別平均気温と平均降水量

1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
気温 ()2.53.67.310.515.217.820.119.815.911.16.03.6年間平均気温11.1
降水量 (mm)484453497779815664646863平均年間降水量745

1956年には冷害プラムを中心に多くの果樹が被害を受けた。元々、市域には昔からイチジクの木が多く生育している。
歴史
古代

おそらく、ローマ時代にはすでに、現在の市域に入植地が築かれており、当時のローマの行政都市ロポドゥヌム(Lopodunum、現在のラーデンブルク)の支局が置かれていたと推測されている。これを暗示するように351年から353年の硬貨が出土しており、後にこの地域でのローマ人の活動が証明された。やがて時代は、混乱と貧困から安定を模索する民族大移動の時代へと移っていった。
中世初期

シュリースハイムは、764年にエルヴァンゲン修道院の、766年ロルシュ修道院の文書にそれぞれ寄進に関連した記録が遺されている。これらは、後に両修道院による村の統治権の根拠となった。シュリースハイムは、ラーデンブルクに次いで、この地域で最も古い町の一つと見なされている。ローマ時代にはすでに現在のシュリースハイム市内にローマの荘園(villae rusticae)がいくつも設けられており、様々な場所でその出土品に出くわす。最初の記録が遺された時代(8世紀半ば頃)には、シュリースハイムはフランク人の村となっていた。
中世盛期

13世紀のシュリースハイムでは、シュトラーレンベルク家が代官の権利を足がかりに支配力を拡大し、1235年頃にはシュターレンブルク城の建設を始めた。この土地はエルヴァンゲン修道院の土地であり、その代官に過ぎないシュターレンベルク家が城を建設するのは明らかに違法行為であった。しかし修道院側は、軍事発動ができないため、自らの権利を行使するためには他者に頼らざるを得なかった。皇帝によりコンラート1世フォン・シュトラーレンベルクの排斥に何とか漕ぎ着けたものの、結局和解に持ち込まれてしまった。1238年に締結されたこの和解条約では、シュトラーレンブルク城を世襲のレーエンとしてコンラート1世に与え、その代わりに彼のすべて私的資産は修道院に譲渡するとされたが、後にそれらも世襲レーエンとして再びシュトラーレンベルク家のものとなった。当時レーエン領主の権利は減衰していたものの、とにかくコンラート1世はこの争いに一定の勝利を収めたのであった。
市の創設

当時の野心を持った貴族は、城だけでなく都市をも私有地にしたいと願うものであった。コンラート1世はシュトラーレンブルク城のすぐ麓に位置するシュリースハイム村を防衛施設を持った都市としてレーエンから私有地にしようと試みた。こうして市も城も併せて全体を囲い込む防壁が造られた。こうした都市建設がなされた明確な時期は不明であるが、1256年にはシュトラーレンベルク家はライン都市同盟の加盟者に名を連ねている。いくつかの証拠から市の創設は1240年から1245年の間であると推測される。

市の創設後、市域内に教会が建設された。この場所には現在もプロテスタント教会が建っている。バッハガッセの南にあった村の教会は撤廃された。その後に領主の都市政庁が設けられた。現在のシュターレンベルクガー・ホーフである。約2mの堅牢な切妻屋根の壁をもつ印象的な石造りの建物は約700年を経たものであり、現在も人が住んでいる世俗建築としては周辺地域で最も古い建物である。

シュトラーレンベルク家が没落した後、シュリースハイム、シュトラーレンブルク城およびそれに付随するすべての領主権は1347年9月8日にハイデルベルクのライン宮中伯が買い取った。シュリースハイムは、それ以後もすべての都市権を保持した。
1470年の都市権喪失

1410年に皇帝ループレヒトが亡くなると、プファルツ選帝侯領は4人の息子に分割された。シュリースハイムは、初め一番下の息子オットーのものとなったが、1448年にジンメルンとツヴァイブリュッケンを治める兄シュテファンと領土の交換が行われた。1459年にこの家系はさらに分岐し、シュリースハイムはジンメルンの家系に属した。そして、この同じ年に騎士のハンス・フォン・ジッキンゲンに4,000グルデンで質入れされた。フェルデンツ=ツヴァイブリュッケン宮中伯ルートヴィヒは、1468年に再びシュリースハイムを手放した。

選帝侯フリードリヒ1世とルートヴィヒ・フォン・フェルデンツ=ツヴァイブリュッケンの間で戦われたヴァイセンブルガー・フェーデでは、1470年5月6日にシュリースハイムとシュターレンブルク城の攻城戦が始まった。


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