この項目では、人物について説明しています。ギリシャの地名・遺跡については「ディオン (ギリシア)」をご覧ください。
ディオン(古代ギリシア語: Δ?ων、ラテン文字転記:Dion、紀元前408年 - 紀元前354年)は、シュラクサイの政治家である。プラトンの弟子であり、彼の『第七書簡』等にその交友の詳細が書かれている。
生涯
ディオニュシオス1世の忠臣ディオニュシオス家とヒッパリノス家の複雑な関係。ディオニュシオス2世は異母妹と、ディオンはその妹で自身の姪と、それぞれ結婚している。
ディオンはヒッパリノス
の子で、姉アリストマケはシュラクサイの僭主ディオニュシオス1世の妻で、ディオニュシオス1世の娘アレテと結婚していた[1][2]。ディオンはその知恵のためにディオニュシオス1世の寵愛を受け、高貴で気位が合って男らしい性格であり、シュラクサイでは富と名声において傑出した人物であった。紀元前388年にディオンは哲学者プラトンを呼び寄せてディオニュシオス1世を感化して賢君たらしめようとした[3][2]。なお、ディオンはプラトンとは同性愛関係にあり、プラトンの稚児であったといわれている[4]。ディオニュシオス1世は最初はこの高名な哲学者を敬っていたが、プラトンが最も勇気がないのは独裁者であり、正義心を持った者が幸福で不正義な人間は不幸であると説いたのを聞くと自分が非難されていると思い、プラトンをギリシアに送り届けるスパルタ人提督ポリスに彼を奴隷に売るか殺すよう求め、アイギナで奴隷に売らせた[5]。紀元前367年にディオニュシオス1世が死んでその息子ディオニュシオス2世が新しい僭主として即位するとディオンはカルタゴの脅威を除くための方策を提議し、僭主が平和を望むならばディオンがリビュアに渡って和平のための処置をするし、戦争を望むならば自費で三段櫂船50隻を提供すると述べた[6]。ところが、群臣たちはディオンに嫉妬して彼が僭主の地位を狙っていると讒訴し、当のディオニュシオス2世も酒と女や下卑た遊びに溺れて放蕩生活をするという絵に描いたような暗君であった[7]。それらの遊びに耽らなかったことをが輪をかけ、ディオンは僭主とその群臣たちから疎まれた。とはいえ、ディオンの側にも原因が皆無と言うわけではなく、彼には「生まれつき尊大な性格と人の近づけない付き合いにくい荒さがあった。現に甘言で耳が腐った若い人から見ると、相手として無愛想で素気ないばかりでなく、親しく付き合ってこの人の性格の率直と高貴を喜んでいる人の多くも、人に接する態度を非難して、頼みにくるものを政治家に似合わず粗暴に扱うと言っていた」(引用にあたって一部語句を改めた)[8]。
そこでディオンはディオニュシオス2世の性格を矯正して徳性を培養しようとし、プラトンを再び招いた。これを受け、反ディオン派はその対抗馬として先代僭主に追放されていた人物で、僭主制の支持者であったフィリストス
を追放先から呼び寄せた。さらに反ディオン派は彼を誹謗中傷したため、ディオンはディオニュシオス2世がプラトンの教育によって軟化しなければ彼を退位させて民主政を敷くことを決めた[9]。プラトンの第二次来訪(紀元前367年)を僭主をはじめとしたシュラクサイ人は熱烈に歓迎した。その一方で反ディオン派はディオンがプラトンの教えで僭主から支配権を手放させて自分の一族に支配権を渡すつもりだと中傷し、折しもシュラクサイと講和については自分が万事手抜かりなく行うから自分のいないところでは会見を行わないように勧めるという内容のディオンがカルタゴへ宛てて書いた手紙が僭主に知られた。さらに、プラトンが僭主制を廃して民主制を敷くようにディオニュシオス2世に説いたのにフィリストスがこれに反対した。これらのこととあわせてディオンを自身の地位への脅威と見なしたため、ディオニュシオス2世はディオンを国外へ追放しようとした[10][11][12]。しかし、人々がディオンの追放に怒って騒動を起こそうとしたため、ディオニュシオス2世はディオンは旅行に行くのだと弁明し、彼の財産やその奴隷と一緒にペロポネソス半島へと彼を送るよう命じた[13]。
ディオンはアテナイに滞在してアカデメイアの哲学者たちと交遊し、当時では名誉なことであるとされていた合唱隊の費用負担などをした。彼は他国も訪問して各地で歓待され、スパルタは彼に市民権を授けた[14]。 一方のディオニュシオス2世はプラトンが恋しくなって三度彼を呼んだ。僭主は最初はプラトンを敬っていたが、やがてディオンの領地を没収して売り払い、詳しい事情は不明であるがプラトンを亡き者にしようとした。しかし、イタリアの都市タラスの将軍で哲学者でもあったアルキュタスが救出に出向き、事なきを得た[15]。
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