シュパンダウ戦犯刑務所
[Wikipedia|▼Menu]
シュパンダウ戦犯刑務所の正面入口、1951年

シュパンダウ戦犯刑務所 (ドイツ語: Kriegsverbrechergefangnis Spandau) は、ドイツベルリンシュパンダウ区ヴィルヘルムシュタット(ドイツ語版)にかつて存在した刑務所である。1946年から1987年には、第二次世界大戦後に行われたニュルンベルク主要裁判で有罪判決を受けた主要戦犯が服役した。最後の囚人となったルドルフ・ヘスの死去後、1987年に解体、撤去された。

なお3 km離れたハーゼルホルスト(ドイツ語版)にあるツィタデレ・シュパンダウ(ドイツ語版)(シュパンダウ城塞)と取り違えられることがあるが、無関係である。
歴史正面入口監視兵交代解体後の更地ヴィルヘルム通りの監視塔

1878年から1898年にかけてシュパンダウのヴィルヘルム通り(ドイツ語版)に軍人を対象とした城塞監獄(ドイツ語版)が建設された。有名な囚人には、後にドイツ共産党帝国議会議員となったヴェルナー・ショーレムが挙げられる。歩兵科の一兵卒であるにもかかわらず反戦デモに参加したため、1917年に不敬罪により投獄された[1]第一次世界大戦後には主に民間人の受刑者が収容された。

1933年の帝国議会議事堂放火事件の後、刑務所は保護拘禁(ドイツ語版)収容所として使用され、反ナチの著名人、エゴン・エルヴィン・キッシュ(ドイツ語版)、カール・フォン・オシエツキーらが収容された。その後、プロイセン州でも組織的に強制収容所が設立されるようになると、囚人の移送が行われた。第二次世界大戦前には、収容者は600人を超えることもあった。

戦後、連合国ニュルンベルク裁判で有罪判決を受けたナチ体制の主要戦犯を収容するため施設を接収した。7人の戦犯が収容され、内4人が刑期を満了した。1966年にアルベルト・シュペーアバルドゥーア・フォン・シーラッハが釈放されると、終身刑に処されたルドルフ・ヘスが唯一の囚人となった。

ニュルンベルク継続裁判での戦犯はシュパンダウではなく、ランツベルク・アム・レヒランツベルク刑務所やその他の施設に収容された。

刑務所はイギリス管理地区内にあったが、ベルリン航空安全センター(英語版)と並び、冷戦中にあっても連合国4か国(アメリカイギリスフランスソ連)が共同で運営していた。刑務所の運営は一月ごとに交代で行われており、連合国管理理事会(ドイツ語版)の庁舎に掲げられる国旗で、その時点の運営担当国を知ることができた。

1987年に最後の囚人ルドルフ・ヘスが死去すると、ネオナチによるプロパガンダ目的の悪用を防ぐべく、施設は解体、撤去された。撤去で生じた残骸は全て粉々にした上で北海に撒くなど、痕跡すら残さぬ徹底ぶりであった。敷地はイギリス軍兵舎 Smuts Barracks に隣接し、また軍事施設として立ち入り禁止地区であったため、西側連合国軍人向けに、駐車場付きのショッピングセンター、ブリタニア・センター・シュパンダウ(ドイツ語版)が建設された。1994年にイギリス軍がベルリンから撤収すると、様々な企業が商業施設として利用した。2011年には旧ブリタニア・センターの一部撤去が申請された。ショッピングセンターの駐車場には現在も、1950年代に囚人たちが植えた木々が残っている。
刑務所施設

刑務所は数百人が収容可能なレンガ造りの建物で、周囲にはいくつもの保安設備が設置されていた。以下に内側から外側の順に挙げる。
5 mの壁

10 mの壁

3 mの
電気柵付き壁

有刺鉄線付き柵

この他に監視塔が9基あり、機関銃を装備した監視兵が24時間体制で常駐していた。監視兵は総員60名であった。囚人房は十分な数があったため、各囚人は一房間を空けて収容されていたが、これは壁を叩いての連絡を防ぐためであった。他の囚人房は、刑務所図書館礼拝堂といった特別な目的に使用された。各房のサイズは約3 m×2.7 m、高さは4 mであった。

刑務所で囚人にとって特別なものは、庭であった。収容人数が少なく、スペースにゆとりがあったため、この場所は当初から囚人たちに割り当てられた。囚人は様々な植物を植えていったが、各人には好みがあった。例えば、カール・デーニッツは豆、ヴァルター・フンクはトマト、アルベルト・シュペーアは花であった。
管理

刑務所は連合国4か国が月ごとに交代で管理していた。そのため各国は年に合計3か月担当していた。以下に表にまとめる。

担当連合国月
イギリス1月5月9月
フランス2月6月10月
ソビエト連邦3月7月11月
アメリカ合衆国4月8月12月

論争

連合国は1946年11月に刑務所を接収し、当初は100人以上の戦犯の収容を想定していた。60名以上の兵士が配置されたが、この他にも連合国4か国のもとに民間人の警備員、4名の刑務所長(各所長には副官が付く)、4名の医師、調理人、通訳、給仕などがいた。これはまったくの過剰配置で、やがて4名の刑務所長、連合国4か国、さらには特に全費用の負担を求められた西ベルリン政府が入り乱れての大論争となった。わずか7人の戦犯のためにこれほどの規模の刑務所を使用することへの論争は、収容者数が減少するにしたがって増大していった。さまざまな提案が行われ、その中には囚人をより大規模な刑務所の一画に移送する、というものから、囚人を釈放した上で自宅監禁にする、というものまであった。論争がその頂点を迎えたのは、シュペーアとシーラッハが釈放され、ルドルフ・ヘスが刑務所で唯一の囚人となった1966年のことであった。なお、前述の提案で実現したものは一つもなかった。
刑務所の生活

刑務所での暮らしは、各部が詳細に規定されていた。これは連合国4か国が囚人の到着前に決定したものである。当時の他の刑務所の規則と比べても、シュパンダウの規則は厳しいものであった。家族への手紙は当初は月に手紙1枚に制限された。囚人間の会話、新聞、日記や回顧録の執筆は禁止された。家族との面会は2か月ごとに15分のみに制限された。自殺防止のために夜間、各房には15分おきに房内に電灯の光が当てられた。

厳格な規則の多くは、やがて緩和されるか、刑務所の職員によって無視されるようになった。西側連合国の所長や監視兵は、多くの厳格な規則に繰り返し反対し、その抗議がやむことはなかった。しかしいずれも厳しい取扱いを好むソ連拒否権により頓挫した。
日常

日課は分単位で規定されていた。6時に起床、身だしなみを整え、独房と廊下の掃除、朝食で1日が始まる。その後に庭仕事か封筒貼り。昼食と続く昼休みの後は、庭仕事を続け、17時ごろに夕食。就寝は22時からであった。

毎週月曜日、水曜日、金曜日には髭剃り、また、必要に応じて散髪もされた。

囚人は収容当初の数年の内に、一部職員の黙認のもと、外部との連絡手段を確立していった。囚人に渡された紙は1枚ごとに記録が取られ、所在を検査されたため、秘密の手紙は、そのほとんどがトイレットペーパーに書かれた。

管理がソ連の担当になると、処遇はいつも決まって悪化した。西側連合国による食事は時として非常に手の込んだものであったが、ソ連によるものはいつも同じで、代用コーヒー、パン、スープ、ジャガイモであった。

1960年代初めにソ連の刑務所長が突如として召還されると、状況は徐々に変わっていった。
囚人

禁固刑に処された戦犯は、1947年7月18日にシュパンダウに移送された。囚人は順番に番号が与えられ、当初は独房はその番号が表示された。囚人はその番号で呼ばれる決まりであった。

囚人番号名前ナチス時代の官職判決釈放死去注記
1
バルドゥーア・フォン・シーラッハ帝国青少年指導者(ドイツ語版)及びウィーン帝国総督(ドイツ語版)20年1966年10月1日1974年8月8日刑期満了
2カール・デーニッツ海軍元帥海軍総司令官、1945年5月に最後の帝国大統領10年1956年10月1日1980年12月24日刑期満了
3コンスタンティン・フォン・ノイラート1932年から1938年まで帝国外務大臣、1939年から1941年までベーメン・メーレン保護領総督15年1954年11月6日1956年8月14日健康上の理由により早期釈放
4エーリヒ・レーダー海軍元帥、1943年1月30日まで海軍総司令官終身1955年9月26日1960年11月6日健康上の理由により早期釈放


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:29 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef