シュパイアー
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紋章地図

基本情報
連邦州:ラインラント=プファルツ州
地域:ライン=ネッカー地域
郡:郡独立市
面積:42.58 km2
人口:

50,565人(2021年12月31日現在)[1]
人口密度:1,188 人/km2
標高:海抜 92 - 113 m
郵便番号:67346 (旧: 6720)
市外局番:06232
緯度経度:北緯 49度19分10秒
東経 8度25分52秒{
ナンバープレート:SP
自治体コード:07 3 18 000
市の構成:4 市区
市庁舎の住所:Maximilianstrase 100
67346 Speyer
ウェブサイト: ⇒www.speyer.de
E-Mail:poststelle@stadt-speyer.de
行政
上級市長:ヴェルナー・シネラー (Werner Schineller) (CDU)
多数政党:CDU
シュパイアー大聖堂

シュパイアー(標準ドイツ語: Speyer、アレマン語: Spayre(シュパイレ))は、ドイツ中南部の都市。ラインラント=プファルツ州南東部に属する。街の人口は約5万人(2021年)である。ローマ帝国時代に建設された。かつては舞台ドイツ語の発音に基づいてシュパイエルと呼ばれた。シュパイヤーの表記も用いられる。
地勢

フランケン地方西北部のライン川の左岸に位置している。近隣の都市としては、約15キロ北東にハイデルベルク、20キロ北にマンハイム、35キロ南にカールスルーエが位置している。また、かつてアレマン人の定住地域が南部付近にあった。

住民構成は南の高地ドイツ語のうち上部ドイツ語に属する南フランケン語(上部フランケン語)や、北の中部ドイツ語に属するクーアプファルツ語(ドイツ語版)(プファルツ語)を境界線として使用するフランケン人が大部分を占める。
歴史

最初この地に集落を形成したのはケルト人で、Noviomagus(「新しい平野」)と呼ばれた。紀元前70年ゲルマン民族 の一部族によって占拠され、その部族名に因んで Civitas Nemetum と呼ばれるようになるが、まもなくローマの支配下に置かれ、軍の駐屯地となった。5世紀にローマの都市は破壊され、フランク族が居住するようになり、6世紀には今日の地名の元となる Spira と記されるようになった[2]

4世紀には司教座が置かれていた。1030年には、当時の神聖ローマ皇帝であるコンラート2世によって、シュパイアー大聖堂(シュパイエル大聖堂)の建設が始められた。 10世紀末から ザーリアー朝王家埋葬地の大聖堂建設と司教座所在地として発展し、16世紀半ばまで頻繁に宮廷会議や帝国会議がこの地で開催され、1527年以降は帝室裁判所が設置された[3]1084年 マインツから逃れてきたユダヤ人がこの地に居住し、1090年 ハインリヒ4世により特権を賦与された。第1回十字軍に関連して各地で発生したユダヤ人に対する暴力行為はこの地でも見られた。1348年のペストを契機に荒れ狂ったユダヤ人迫害の波はこの地にも及び、1435年にはユダヤ人が追放された[4]1111年市はハインリヒ5世により各種の税を免除され、「いかなる権力保持者もシュパイヤの貨幣を市民の同意なくして軽くしたり、あるいは劣悪にしてはならない」と市の貨幣価値が保証された[5]ハインリヒ6世によっては、自由選挙によって選ばれる12人によって構成される参事会が承認された。「市長」が登場するのは、 1230年の都市法が初めてである[6]1381年 には、すでに市が加盟していたライン都市同盟とシュヴァーメン都市同盟がこの地で一つの軍事同盟に合体した[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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