シュネツ部隊
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アルベルト・シュネツ(1967年、当時中将)

シュネツ部隊(シュネツぶたい、ドイツ語: Schnez-Truppe)、あるいはシュネツ機関(シュネツきかん、ドイツ語: Schnez-Organisation)は、第二次世界大戦後のドイツ連邦共和国西ドイツ)にて結成された組織である。構成員は旧国防軍および旧武装親衛隊の元将校らで、再軍備が実現されていなかった西ドイツにおいて、ソビエト連邦による侵攻に対抗することをその目的とした。有事には復員兵らを招集し、国外にて3個ないし4個機甲師団を編成した上、亡命政府のもとで国土奪還のために戦うこととされていた。非公然かつ非合法の組織ではあったが、連邦政府やアメリカ政府から指導および支援を受けていた。その名は主導的な役割を果たしたアルベルト・シュネツ(ドイツ語版)元陸軍大佐に由来する。1955年、ドイツ連邦軍の設置を以て再軍備が実現され、シュネツ部隊はこの前後に解散された。

2014年、歴史家アギロルフ・ケッセルリンク(ドイツ語版)(アルベルト・ケッセルリンク空軍元帥の孫)によって存在が明らかにされた。当時、ケッセルリンクは連邦情報局(BND)が同局の黎明期の歴史を編纂するため設置した委員会に参加しており、人事関係の調査の過程でゲーレン機関(BNDの前身)が作成した文書の中に「保険」計画(Unternehmen Versicherungen)と題されたファイルを見つけた。このファイルこそが秘密裏に組織されたシュネツ部隊の活動に関する記録だった[1]
歴史
クラック師団の再建構想ジョージ・プライス・ヘイズ

西ドイツおよびアメリカの当局が「旧軍の元将兵を招集して再武装させる」という案を検討し始めたのは、朝鮮戦争を受けてのことである[1]。再軍備が未だ行われていない西ドイツにおいて、有事には西側連合国の駐留軍に頼らざるを得ないことは明らかだったが、当時の西ドイツ市民はアメリカ人、イギリス人、フランス人らが本当にドイツのために命を掛けて戦うのか懐疑的だった。同じ頃、西ドイツと対峙するドイツ民主共和国(東ドイツ)では、既に戦車や火砲を備えた事実上の軍隊である兵営人民警察が組織されつつあった[2]

再軍備の実現に向けた旧軍将校らの暗躍自体は西ドイツ市民にとって公然の秘密とも言えるもので、当時から報道でも取り上げられていた。また、連邦政府や一部野党勢力、アメリカの当局などがその存在と活動を承知していた点も、第一次世界大戦後に結成されたフライコールとの大きな違いである。グレイハウンド運動(Windhund-Bewegung)、ゲルトナー会(Gaertner-Kreis)、同胞団(Bruderschaft)、マイゼル会(Meisel-Kreis)などの旧軍将校グループが非公式な再軍備に向けた活動を行っており、その中にあってシュネツ部隊は最も高度に組織化されたグループだった[3]

元将兵による旧軍師団再建というアイデアは、「クラック師団」(Crack-Divisionen)という言葉と共に言及された。これは経験豊富な人員と潤沢な装備を備えた部隊を指すアメリカ軍での用語に由来する表現で、例えば陸軍の一般的な装甲師団と比べて倍近い戦車が配備されていた武装親衛隊の装甲師団(第1第2第5SS装甲師団)、あるいは陸軍でも大ドイツ師団装甲教導師団が旧軍におけるクラック師団と見なされた。歩兵師団の中では降下猟兵師団のほか、第1期編成師団、すなわち1939年8月の動員以前にヴァイマル共和国軍の連隊から編成された歩兵師団がクラック師団と見なされた。元将兵を招集すれば速やかにこうした精強な部隊が再建されうると考えられたのである。しかし、武装親衛隊はニュルンベルク裁判で犯罪組織と認定されており、その師団を「軍部隊」と位置づけて再建することは不可能であった。一方、国防軍の師団であっても、その再建は「軍国主義の根絶」を目的に連合国高等弁務官事務所が行った布告、すなわち「軍あるいは類似の集団の組織の禁止」に反することが明白であった[4]フェリックス・シュタイナー元SS大将は、1948年にドイツの軍備の一部を西側にて維持し、ソ連邦の攻撃があった場合に精鋭師団の要員をライン川以西またはフランスに退避させ、反攻に向けた戦力を保存するという提案をアメリカ側に行ったとされる。第116師団(グレイハウンド師団)の最後の師団長で、コンラート・アデナウアー首相付軍事・安全保障顧問を務めていたゲルハルト・フォン・シュヴェリーン(ドイツ語版)元装甲兵大将は、かつて連隊長として彼に仕えたハインリヒ・フォイツベルガー(ドイツ語版)元少将と共に第116師団の再建を計画した。ただし、フォイツベルガーはやがてドイツ兵が連合国軍のための「弾除け」(Kanonenfutter)に過ぎないのではないかと考えるようになり、シュヴェリーンと決別した。後に報道でグレイハウンド運動と呼ばれたこの計画は、結局それ以上の発展を見せなかった[5]。1950年7月、アメリカの管轄地域で高等弁務官を務めていたジョージ・プライス・ヘイズ(英語版)中将は再軍備に向けた組織の立ち上げに着手した。この組織は本土勤務局(Zentrale fur Heimatdienst)[注 1]の隷下に設置されたが、6ヶ月後にゲーレン機関の指揮下に移った[3]

1950年7月10日、ヘイズ、シュヴェリーン、ヘルベルト・ブランケンホルン(ドイツ語版)、ラインハルト・ゲーレンが出席する会議が催された。議題は「ドイツ連邦共和国領土に対するロシア軍の奇襲攻撃が発生した場合に必要となる措置」に関してであった。ドイツ側の出席者らは、ドイツ兵が「連合国軍の弾除けとして使われるにはあまりに有能」なため、ドイツ国民がロシア軍の攻撃に際するドイツ防衛に連合国軍の一部として参加する意欲は低く、一方で連邦政府の要請に基づくドイツの兵隊としてならば、「十分な武器が供給できる限り、連合国とともにドイツを守る」ことができると伝えた。7月17日の2度目の会議では、ヘイズは旧軍の装甲師団などの元将兵を鉄道で国外に脱出させた上、戦闘部隊として再建するという有事の計画を語った[6]。当時、アメリカでは外国人志願兵の入隊を認めるロッジ・フィルビン法(英語版)が可決され、在オーストリア米軍ではオーストリア市民を初めとする外国人義勇兵の動員を含む有事計画を立てていた。つまり、ヨーロッパでの戦争においては戦力確保のために外国人であるヨーロッパの市民を用いることを想定していたのである。ヘイズ案は「ドイツの軍部隊」を作ろうとしている点で、連邦政府に大いに譲歩したものだった[7]。また、軍を常設せず緊急時に師団の再建を行う方式であれば、ドイツの再軍備に強く反発していたフランスを納得させうるとも期待されていた[8]

1950年7月22日の会議では、シュヴェリーンからヘイズに旧軍将兵の名誉回復が要請された。ヘイズがこれに応じると、続けて恩給受給資格を持つ元国防軍将兵および遺族の会(Bund versorgungsberechtigter ehemaliger Wehrmachtsangehoriger und ihrer Verbliebenen, BvW)の活動を尊重することを求めた。BvWはドイツ兵士の会(ドイツ語版)(VdS)でも主導的な役割を果たしていたゴットフリート・ハンゼン(ドイツ語版)元海軍大将が会長を務めており、強い影響力を持つ復員兵団体であった。1950年9月2日に作成された覚書では、それまで議論されていた方式での部隊再建が退けられ、ハンゼンのグループを通じての兵員募集が支持された。1950年10月28日、アデナウアー首相によってシュヴェリーンが解任された。先述のグレイハウンド運動が公にされたことに加え、BvWを通じて500人の兵員を募集する通達に関しての報道も解任の理由となった[9]
第25師団戦友会アントン・グラッセル(1944年、当時中将)

第二次世界大戦中、シュネツは部隊指揮官を初めとした様々な役職についていたが、輸送関連の任務で才能を発揮した。南ウクライナ戦線やイタリア戦線でも、兵站を支える鉄道網の責任者を務めていた[3]。敗戦後もアメリカ軍の監督下でイタリアにおけるドイツ鉄道建設部隊総監を務めたとも言われている。後にシュネツ自身が語ったところによれば、1948年までこの職名のもとドイツ人労務部隊を率いたという。鉄道建設を指揮する傍ら、十分な信頼を得ていたシュネツはアメリカ軍のための情報収集も行っていた。シュネツはアメリカ側との接触を保ち続け、帰国直後からヘイズが提唱したクラック師団の再建構想を前提に活動していたと見られる[10]

木材、織物、家具等の取引事業で生計を立てつつシュヴァーベンで暮らしていたシュネツは、かつて自身も勤務した第25師団(ドイツ語版)の戦友会を立ち上げた。会員同士の互助を促し、戦没者の未亡人や孤児への支援を行ったり、戦時中の思い出や各々の近況を話し合うなど、当初は一般的な戦友会と同様の活動が行われていた[1]。戦友会の立ち上げには、シュネツが経営する運送会社で働いていたかつての第25師団長アントン・グラッセル(ドイツ語版)元歩兵大将の協力を受けていた。シュヴェリーン解任直後の1950年11月21日、グラッセルは連邦内務省に雇用され、機動隊総監として有事の警察部隊展開に責任を負う立場についた[11]

東側による侵攻の可能性は、第25師団戦友会の会員の間でも頻繁に議論されていた。依然として西ドイツは軍隊を保有せず、一方でアメリカは1945年以来ヨーロッパからの撤兵を進めつつあったからである。後にゲーレン機関の職員が作成した記録によれば、緒戦での敗北を許容しつつ、敵後方で活動するパルチザンを組織・指導し、その後にドイツ国外に抵抗の拠点を設置するというのがシュネツらの当初の構想だった。やがて、彼らはその構想に基づいて東側の脅威に対抗するための「軍隊」の組織に着手した[1]。第25師団戦友会の計画は、シュヴェリーンのグレイハウンド運動とよく似たものだった。「軍隊」は少なくとも1951年5月から1953年末まで活動していたことが確実な記録として残るほか、1951年以来存在していたとシュネツが述べたとする記録もある。


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