キュレネのシュネシオス(古希: Συν?σιο? 英: Synesius 370年ごろ - 413年ごろ[1])は、東ローマ帝国初期・古代末期の新プラトン主義哲学者、第二次ソフィスト、キリスト教司教、ヒュパティアの教え子。複数の著作、書簡、讃歌が現存する。 370年ごろ、キュレネの異教徒の貴族の家に生まれる[2]。読書と狩りの田園生活を過ごし、アレクサンドリアでヒュパティアの学校に入る[2]。395年から399年、アテナイに滞在する[3]。 399年、減税陳情の使者に任命され[4]、401年までコンスタンティノポリスのアルカディウス帝の宮廷に滞在する[2]。滞在中に下記『統治論』『エジプトの話』を作る[2]。 403年、キュレネでキリスト教徒の女性と結婚し3人の子をもうける[2]。405年、キュレネを蛮族の襲撃から守るため私兵を組織する[5]。 410年、プトレマイス
生涯
没年は413年と推定される[2][8]。これは、同年に死の床からヒュパティアに書簡を宛てていること、および415年のヒュパティアの死に言及する書簡がないことによる[2]。 以下の著作が現存する。すべて原語はギリシア語[9]。英訳あり[10]。
著作・思想
『統治論』 - コンスタンティノポリスでアルカディウス帝に哲人政治を説き[11]、ゴート族軍人を追放してローマ人の軍隊を作るよう訴える弁論作品[12]。当時はガイナスのようなゴート族軍人が跋扈していた[12]。
『エジプトの話』 - 『統治論』とともに作られた政治寓話[2]。
『禿の賛美』 - ディオン・クリュソストモスの弁論『髪の賛美』に倣った弁論作品。
『ディオン』 - ディオン・クリュソストモスを主題に、当時の批判者に応答する作品[13]。403年ごろ成立[13]。
『夢について』 - アリストテレス『夢について』『夢占いについて』や、マクロビウス『スキピオの夢注解』等と並ぶ夢理論の古典[14]。神の命により一夜で書き上げたという[14]。403年ごろ成立[13]。