シュトラウス家(ドイツ語: Familie Strauss)は、19世紀を中心にオーストリアで活躍した音楽家の家系である。比喩的に「シュトラウス王朝(ドイツ語: Strauss-Dynastie)」と呼ばれることもある[1]。毎年元日にウィーン楽友協会の大ホールで開催されるウィーンフィル・ニューイヤーコンサートは、このシュトラウス家の楽曲を中心にプログラムが組まれる。
なお、同じオーストリアの音楽家オスカー・シュトラウスや、ドイツの音楽家リヒャルト・シュトラウスの一族との血縁関係はない。 家祖はヨハン・ミヒャエルというハンガリー系ユダヤ人で[2][3]、1750年ごろにブダペストからウィーンにやってきた[4]。反ユダヤ主義によってユダヤ人への世間の風当たりは強く、ヨハン・ミヒャエルはさまざまな苦労を強いられたという。苦労の末に彼はオーストリア人の漁師の娘と[5]1762年2月11日にシュテファン大聖堂で結婚し[4]、結婚を機にユダヤ教からキリスト教に改宗した[5][2]。シュテファン聖堂には「ヨハン・ミヒャエル・シュトラウス、奉公人(中略)洗礼を受けたユダヤ人、独身。オーフェンで誕生。ヴォルフ・シュトラウスとその妻テレジアの息子」という結婚記録書が今も残っている[4]。 この結婚と改宗によってヨハン・ミヒャエルは当局からオーストリア人であると認められ、ドイツの姓を名乗ることを許された[5]。当時ユダヤ人の多くは姓を持っておらず[5]、ヨハン・ミヒャエルは姓を持つことでその出自を隠してヨーロッパ社会に同化したのである[2]。ただし、当局はユダヤ人への差別感情ゆえにぱっとしない姓をヨハン・ミヒャエルにあてがった[6]。それが「ダチョウ」を意味する姓シュトラウスであった[6]。ユダヤ人の血を引いているとすぐに判別がつくものだったが、ようやく獲得した姓をふいにすることを避けるために、ヨハン・ミヒャエルはその姓に異議を唱えることなく受け入れた[6]。彼は自分の子供たちがユダヤ人だと言い当てられることに尋常でない反発を示したという[6]。 ヨハン・ミヒャエルの息子の一人であるフランツ・シュトラウスの長男としてヨハン・シュトラウス1世は誕生した[6][2]。 ヨハン1世が幼い頃に、父フランツが営む居酒屋「良き羊飼い」が経営不振に陥って倒産してしまう。フランツの妻バーバラは過労がたたって1811年に病死し、フランツはその後を追うように1816年にドナウ川で投身自殺した[7][2]。
歴史左からエドゥアルト1世、ヨハン2世、ヨーゼフ。別々に撮影された写真三枚の合成写真である。ヨハン3世(1938年撮影)エドゥアルト2世(1958年撮影)
前史
音楽一家として