シュガー・レイ・レナード
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シュガー・レイ・レナード1984年
基本情報
本名レイ・チャールズ・レナード
(Ray Charles Leonard)
通称シュガー
(Sugar)
階級ウェルター級 - スーパーミドル級
身長178cm
リーチ188cm
国籍 アメリカ合衆国
誕生日 (1956-05-17) 1956年5月17日(67歳)
出身地ノースカロライナ州ウィルミントン
スタイルオーソドックス
プロボクシング戦績
総試合数40
勝ち36
KO勝ち25
敗け3
引き分け1
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獲得メダル
アメリカ合衆国
男子 ボクシング
オリンピック
1976 モントリオールライトウェルター級

シュガー・レイ・レナード(Sugar Ray Leonard、1956年5月17日 - )は、アメリカ合衆国男性プロボクサーノースカロライナ州ウィルミントン出身。元WBA世界ウェルター級王者。元WBC世界ウェルター級王者。元WBA世界ジュニアミドル級王者。元WBC世界ミドル級王者。元WBC世界スーパーミドル級王者。元WBC世界ライトヘビー級王者。世界5階級制覇王者。モントリオールオリンピックライトウェルター級金メダリスト。本名はレイ・チャールズ・レナード。母親がレイ・チャールズのファンだったため命名したもの。のちにボクサーとして活動する際、尊敬するシュガー・レイ・ロビンソンにあやかって、シュガー・レイを名乗った。

ヘビー級が動くが如く、ボクシングは動く」とされたボクシング界の常識を覆して、ロベルト・デュランマービン・ハグラートーマス・ハーンズらと歴史的なビッグファイトを繰り広げ「黄金のミドル(中量級)」時代を盛り上げた。1977年にプロデビュー、1997年に完全引退した。
来歴

1976年モントリオールオリンピックでアンドレス・アルダマ(キューバ)を3R判定で下し、ライトウェルター級の金メダルを獲得。一時は引退も考えたが、1977年にプロデビューした。

1979年11月30日、無敗のままウィルフレド・ベニテスから15RTKOでWBC世界ウェルター級タイトルを獲得[1][2][3]

1980年6月20日、ロベルト・デュランに判定負けで王座から陥落するとともに、プロ初黒星を喫した。1980年11月25日、ロベルト・デュランと再戦し、9回TKO勝ちで王座を奪回。

1981年6月25日、アユブ・カルレからWBC世界ジュニアミドル級タイトルを獲得し2階級制覇を達成するが、タイトル返上。

1981年9月16日、後にレナードと共に5階級制覇を遂げるWBA王者トーマス・ハーンズとのウェルター級王座統一戦で、序盤はハーンズにペースを握られるが14回に逆転TKO勝ち。WBAとWBCの王座を統一する。試合後に網膜剥離が発覚した。

1982年11月、「いったん引退」を発表。

1986年3月10日、マービン・ハグラージョン・ムガビの解説をしていたレナードは当時最強のチャンピオンといわれたハグラーに勝てると確信し、「現役復帰」を決意する。

1987年4月6日、ハグラーに挑戦し僅差の判定勝ちでWBC世界ミドル級タイトルを獲得。3階級制覇を達成した。

1988年11月7日、WBC世界ライトヘビー級王者ドン・ラロンデと168ポンドのキャッチウェイトで対戦、9回TKO勝ちで新設されたWBC世界スーパーミドル級ライトヘビー級の2階級の王座を同時に獲得。同月4日に達成したハーンズに続く2人目の主要団体での「5階級制覇を達成」した。しかし、これはライトヘビー級王者のラロンデをスーパーミドル級まで体重を落とさせてのスーパーミドル級王座決定戦に、ラロンデの持つライトヘビー級王座も賭けられるという、極めて異例の試合だったため、レナードの5階級制覇には懐疑的な意見もある。

1989年6月12日、WBO世界スーパーミドル級王者トーマス・ハーンズとの王座統一戦で引き分け。1989年12月7日、ロベルト・デュランに判定勝ちし、WBC世界スーパーミドル級王座を防衛。

1991年2月9日、WBC世界ジュニアミドル級タイトル戦で王者テリー・ノリスに12回判定負けを喫した。試合後のリング上で「2度目の引退」を表明した。

1997年3月1日、IBC世界ミドル級タイトル戦で6年ぶりに「現役復帰」。ヘクター・カマチョに5回TKO負けを喫し、「引退」した。

ウェルター級歴代最速とも言われるスピードで、スーパーエキスプレスと称された。特にパンチの回転力がケタ外れに速く、ここぞという時のレナードの連打は、カメラが捉えきらないほどのスピードを見せた。ハーンズとの第1戦は、特に評価が高く、「20世紀最後のビッグファイト」と称され、ボクシング・マガジン2009年1月号「500号記念特集」において、歴代ベストバウトに挙げている。ハーンズとはレナード13戦目、ハーンズ12戦目の若手時代に一度対戦が内定したことがある。しかしアンジェロ・ダンディの反対によりこのマッチメイクは成立しなかった。代わりにレナードが対戦したのが、フロイド・メイウェザー・シニアである。ハグラーとの対戦での判定は、未だに論議を呼んでいる。試合後のダメージが、レナードの方がより大きかったためだが、特にブランクの影響で、中盤でのスタミナ切れが苦戦の要因と見られていた。その後、デュランとの第3戦に勝利したレナードが、次の対戦相手として、1990年に再戦を申し入れたが、ハグラーは拒否した。
引退後

1990年、離婚訴訟中だった元妻がレナードが酔っ払うと暴力を振るわれていたこと、レナードがコカインを使用していたことを告発。レナードは会見を開き元妻の告発が事実であることを認め、引退をした1982年から1986年までコカインを使用していたと告白した[4]

2001年、ボクシングプロモーション「シュガー・レイ・レナード・ボクシング社」の設立と、ESPNと提携し毎月1回フライデーナイトファイトで試合を放送することを発表。しかし2004年、ビヨン・レブニーと経営方針の違いから仲違いをしてプロモーション会社を解散した[5]

2011年、出版した自伝「The Big Fight: My Life in and out of the Ring」の中でレナードが10代の頃、オリンピックのボクシングトレーナーから性的虐待(オーラルセックス)をされていたことを告白した[6]
エピソード

モハメド・アリの後継者と称されるだけあり、デビュー戦から全米ネットワークでTV中継がされるなど、早くからスターとして注目され、高い人気を誇った。その明朗快活なイメージから少年少女にもファンが多く、デビュー当時、WBCウェルター級王者だったカルロス・パロミノの幼い息子も、レナードの大ファンだった。


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