シュガー・ベイブ
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シュガー・ベイブ
出身地
日本東京都
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J-POP[1][2]

ファンク[1]

シティ・ポップ[3]

ロック[3]

ポップス[3]

ソウル[3]

活動期間1973年 - 1976年
レーベルNIAGARA ? ELEC
事務所

風都市(1974年)

TAKE ONE(1974年 - 1976年)


旧メンバー

山下達郎ボーカルギターキーボードコーラス

大貫妙子(ボーカル・キーボード・コーラス)

村松邦男(ボーカル・ギター・コーラス)

寺尾次郎ベース・コーラス)

上原裕ドラムス

(途中脱退者は#メンバーを参照)

シュガー・ベイブ(SUGAR BABE)は、1973年から1976年まで活動していた日本ポップスバンド
概略

1972年発売の自主制作盤「ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY」の制作メンバーにより、1973年に結成されたインディーズ・バンドである。当時はまだ珍しかった、メジャー7th分数コードなどのコードプログレッションを多用するほか、コーラスワークに重点を置いた音作り。当時はポップスミュージックがほとんど知られておらず[注 1]セールス的には低迷し、アンダーグラウンドな存在に留まっていた。

1976年に解散。活動当時は極めてマイナーなバンドであった。
メンバー
第1期:1973年4月 - 1975年4月


山下達郎(やました たつろう) ? ヴォーカルギターキーボード、コーラス

大貫妙子(おおぬき たえこ) ? ヴォーカル、キーボード、コーラス

村松邦男(むらまつ くにお) ? ヴォーカル、ギター、コーラス

鰐川己久男(わにかわ きくお) ? ベース、コーラス

野口明彦(のぐち あきひこ) ? ドラムス

第2期:1975年4月 - 1975年6月


山下達郎 ? ヴォーカル、ギター、キーボード、コーラス

大貫妙子 ? ヴォーカル、キーボード、コーラス

村松邦男 ? ヴォーカル、ギター、コーラス

伊藤銀次(いとう ぎんじ) ? ギター

寺尾次郎(てらお じろう) ? ベース、コーラス

上原裕(うえはら ゆたか) ? ドラムス

第3期:1975年6月 - 1976年4月


山下達郎 ? ヴォーカル、ギター、キーボード、コーラス

大貫妙子 ? ヴォーカル、キーボード、コーラス

村松邦男 ? ヴォーカル、ギター、コーラス

寺尾次郎 ? ベース、コーラス

上原裕 ? ドラムス

略歴1971年

3月、大貫妙子、高校を卒業。在学中にはバンドを組んだり、吉祥寺の“ビ・バップ”や“ライトハウス”、新宿の“ソウル・イート”といったロック喫茶に通うなど音楽は好きだったが、将来音楽家になる意思はなかった。

春、大貫、美術学校に入学。一生できる仕事をしたいとの理由で陶芸家を目指して学校に通い始めたが、朝8時位からのデッサンを半年近く続けたところ、持病の肩こりが悪化。首が全く回らなくなり、根詰める仕事は一切ダメだと医者に止められ退学。ただ、音楽は趣味で続けていて、喫茶店で
キャロル・キング「IT'S TOO LATE」をボサノヴァぽく歌うというような弾き語りをしていた。

冬、大貫、ギターを持って渋谷ヤマハに譜面を買いに来たところ、入り口付近にたむろしていた林謙司と広瀬ジョージの2人に声をかけられ、グループ“三輪車”への参加を持ちかけられる。とにかくバンドに女の子がほしいという彼らの話から“この先、肩こりで絵も描けないし、どうしようかと思っていた頃だし、まだ若いから何やってもいいや”と思い、参加を決める。最初は嘘かと思っていたが翌日、当時彼らがすでに契約していたワーナー・パイオニアに行き大野という女性のディレクターを紹介される。こうして、グループへの加入を機に実質的なプロとしてのキャリアがスタートする。

大貫、三輪車としてのレッスンを始めるが、この頃のレパートリーは「あの子この子」や「落松葉」「伊那」といった北原白秋の詩に曲をつけたり、フォーク然としたオリジナル曲ばかりだったので、彼女の嗜好と一致していなかった。それでも彼女はグループの一員として地方のラジオ局周りやスーパーの開店記念イベントでの店頭演奏などを行う傍ら、必要に迫られ自らも曲作りを始めていた。
1972年

7月、山下達郎、アルバム『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を友人達と3か月かけて自主制作。グループ名は特になく、メンバーは山下の中学時代のクラスメイトだった並木進、並木が高校で知り合った鰐川己久男と武川伸一の4人。メンバー全員が大学に進学した同年春、誰の口からともなく、今までの活動を何か形にして残そうという提案が出されたのがきっかけだった。アナログA面にザ・ビーチ・ボーイズ、B面にドゥーワップロックンロールのカヴァーをそれぞれ収録。制作費は100枚で13万円。それをメンバー4人で25枚ずつ分け、友達に1枚1,500円で無理矢理売るが、結局最後はほとんどタダ同然で配ってしまう。このレコーディング時に並木からの依頼でエコー・マシーンを貸すため村松邦男がレコーディング・スタジオになっていた並木家を訪れ、「SINCERELY」のコーラスを手伝う。村松は並木の高校の友人の1年先輩。以後、並木家で行われていたセッションにギターを携え毎週、顔を出すようになる。

秋、『ADD SOME?』レコーディング・メンバーの山下・鰐川・並木・武川に村松が加わり、アルバム・ジャケットのデザインを手がけた金子辰也が当時通っていた美術学校の文化祭に出演[注 2]

秋、大貫、三輪車のレコーディング制作がスタートし始める。大貫の書いた曲に大野ディレクターは十分理解を示してはくれたが、会社の方針からとりあえずはプロの作家に依頼することになった。作詞は千家和也が手掛けたが、その詞は大貫には気に入らない内容だった。若さゆえに自尊心も強く、“売れなくてもいいからカッコ悪いことはいやだ、カッコ悪いことだけはしたくない”という思いからグループを辞めたいとの思いが次第に強くなる。

秋、大貫、三輪車を辞めたいが契約があるのでどうしようかと思っていた頃、当時ワーナーからプロジェクトを始めるときのスタッフとしてアレンジを請け負っていた矢野誠を紹介される。矢野は三輪車についてレコード会社から「学生街の喫茶店」が流行っていたので、ああいうのを目標にしてやってみたらどうかと言われるが、矢野自身は好みではなかった。


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