ゴルカ家
(シャハ家)
??????
王朝
国章
国ゴルカ王国
ネパール王国
当主称号ラージャ
マハーラージャ
マハーラージャーディラージャ
当主敬称陛下
創設1559年
家祖ドラヴィヤ・シャハ
最後の当主ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ(王家としての滅亡)
現当主ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ(第22代)
滅亡2008年5月28日(王政廃止によって滅亡)
民族ネパール人(チェトリ)
ゴルカ朝(ネパール語:??????、英語:Gorkha dynasty)は、1559年から2008年5月28日まで続いたゴルカ王国及びネパール王国の王朝。ネパール最後の王朝でもある。王家の姓を取ってシャハ朝(ネパール語: ??? ??? ?a?ha va??a、英: Shah dynasty)とも呼ばれる。英語読みではグルカ朝(Gurkha dynasty)と発音される。
王はヒンドゥー教徒で、ヴィシュヌ神の化身とされてきた。出身カーストはチェトリ(インドのクシャトリヤに相当)。 1484年にラーヤ・マッラのバクタプル王国から、ラトナ・マッラのカトマンズ王国が独立。1619年にシッディナラシンハ・マッラのパタン王国が独立し、マッラ朝は三王国時代に入る。 16世紀、ヤショー・ブラフマ・シャハ 1559年、ヤショー・ブラフマの子、ドラヴィヤ・シャハ(Dravya Shah)がゴルカ王国を確立。当時、ネパールは多くの独立した小国に分かれており、ゴルカは二四諸国にも数えられないほどの小国であった[1]。 1743年、プリトビ・ナラヤン・シャハがゴルカ王(第10代)を継承、ネパール統一に乗り出す。1767年のキルティプルの戦い
歴史
前史
ゴルカ王国
統一絶対王政期(1768年 - 1951年)詳細は「ネパールの統一」を参照プリトビ・ナラヤン・シャハ
1814年、ギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハの治世にグルカ戦争がネパールとイギリス東インド会社との間で勃発する。この戦いに敗れたネパールは、1816年、国土の1/3を失う[3]。
1846年、ラジェンドラ・ビクラム・シャハの治世、ゴルカ朝は宰相のラナ家に実権を奪われ、名ばかりの王家となる[4]。 ゴルカ朝がその実権を取り戻したのは1951年、トリブバン国王のときのことである[5]。亡命先から帰国したのち、初めて立憲君主制を採用した[4]。 1959年、マヘンドラ国王は憲法を公布してネパール初の総選挙を実施。選挙の結果ネパール会議派が大勝し、ビシュエシュワル・プラサード・コイララ内閣が誕生する[6]。しかし、改革を進めようとする内閣と、権力を維持したい国王は次第に対立を深め、1960年、マヘンドラ国王は憲法を停止して内閣・議会を解散、コイララ首相ら政党指導者を逮捕した(国王のクーデター)[7]。
立憲王政期(1951年 - 2008年)