シャー・ルフ
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シャー・ルフ
??? ?? ????? ??hrukh M?rz?
ティムール朝
アミール
ミハイル・ゲラシモフによる復顔胸像
在位1409年 - 1447年

出生1377年8月30日
サマルカンド
死去1447年3月12日
イランレイ
埋葬グル・アミール廟
配偶者マリカト・アーガー
 ガウハール・シャード・アーガー
 トゥティ・ハトゥン・ナリン・ムガル
 アク・スルタン
 ミール・ニガル・ウズベク・ビスート
 ラール・タキン
子女別記
王朝ティムール朝
父親ティムール
母親タガイ・タルカン・アーガー・カラキタイ
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シャー・ルフ(ペルシア語:??? ?? ????? ??hrukh M?rz?、英語:Shah Rukh、漢籍:沙哈魯 1377年8月30日 - 1447年3月12日[1])は、ティムール朝の第3代君主(在位:1409年 - 1447年)。
生涯
即位まで

1377年に初代君主ティムールの四男としてサマルカンドに生まれた。シャー・ルフが生まれる直前にティムールはチェスをしており、城(ルフ、Rukh)の駒で王(シャー、Shah)手をかけた時に、ちょうど四男が生まれた報告を受けた。喜んだティムールは子に「シャー・ルフ」と名付けた伝承が残る[2]1397年ヘラートを中心とするホラーサーン地方を領地として与えられ、1401年アンカラの戦いにも従軍し、彼の率いるホラーサーン軍は中軍の左翼に配置された。

1405年、父が遠征途中にオトラルで病死した。ティムールは生前に嫡孫のピール・ムハンマド・ジャハーンギールを後継者に指名していたが、シャー・ルフとティムールの三男ミーラーン・シャーの子ハリール・スルタンは自身の名前をフトバと貨幣に用いて独立の意思を表し、2人の他にも帝位を窺う王族は多くいた。こうした状況下でシャー・ルフはミーラーン・シャーとハリール・スルタンの合流を阻止し、スライマーン・シャー、サイード・ホージャら反乱を起こした配下の貴族を討って地盤を固める。ピール・ムハンマドは配下によって暗殺され、ハリールが配下の反乱によってサマルカンドから追放された後、最後の有力者としてシャー・ルフが残った。1409年5月にシャー・ルフはサマルカンドに入城、ハリールを廃位して即位する。
即位後

シャー・ルフは即位前からの居住地であったヘラートに住み、1412年までに居所を宮殿からヘラート西北の「カラスの園」に移した[3]。従来の首都サマルカンドには息子のウルグ・ベクを総督に、ベルグト部のシャー・マリクを後見人に置き、シャー・マリクを後見人から罷免した後はウルグ・ベクと国を2つに分けて共同統治を行う体制となった[4]。治世の初期に親族、特に息子たちの反乱を恐れて頻繁に領地を変えた。3人の兄の子孫を中央から遠ざけるとともに姻族と腹心の部下を重用して[5]自身の一族の権力を高めようとするが、効果は上がらなかった[6]。事実、1414年にはファールスの総督に任じていたイスカンダル(兄ウマル・シャイフの子)が反乱を起こし、シャー・ルフ自らファールスに親征して翌1415年に殺害している。

各方面に派兵してティムール没後に失った領地の回復を試みたが、しかし黒羊朝の支配下に入ったアゼルバイジャンの奪回には失敗した。1420年1429年1433年の3度にわたる遠征を行い、最初の遠征では黒羊朝の指導者カラ・ユースフが没したため一度は支配下に戻るが、シャー・ルフが帰還した直後にカラ・ユースフの子イスカンダルが再独立した。イスカンダルの兄弟ジャハーン・シャーを対立王として擁立することで解決を図り、シャー・ルフ存命中のジャハーン・シャーは恭順の意思を示した。しかし、完全に従属させるには至らず、黒羊朝はシャー・ルフ没後に臣従関係を断ち切った。

1414年に北インドで成立したヒズル・ハーンサイイド朝も、当初はフトバにシャー・ルフの名前を入れて臣従を表明していた。ヒズル・ハーンの子ムバーラク・シャーが即位するとサイイド朝はフトバからシャー・ルフの名前を削り、独立の意思を表すようになった。シャー・ルフが派遣した討伐の軍は敗れ、インド方面の回復に失敗した。

晩年にイラン高原で反乱を起こした孫を討伐するために遠征したとき、1447年3月12日にレイで陣没した。
対外政策

シャー・ルフ時代、帝国の周辺諸国に多くの使者が送られた。

父の代に敵対していた明との国交関係の修復は、シャー・ルフがサマルカンドに入城する前から行われていた。1408年にヘラートを訪れた明の使節の返礼として使者を北京に派遣し[7]、これより明との間で使節のやり取りが行われた。明の永楽帝からは織物が、ティムール朝からはライオン、中央アジアのを互いに贈りあった。明から派遣された外交使節陳誠が記した『西域番国志』『西域行程記』には、当時のヘラートの繁栄が記されている。宣徳帝の治世になるとティムール朝の使者が中国を訪れることは稀になり[7]、一時は交流が復活したものの正統帝の即位後は明側が外交に対して消極的な方針を採ったため[8]、ティムール朝と明の関係は疎遠になった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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