シャー・ジャハーン
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ムガル皇帝
シャー・ジャハーン
在位1628年1月30日 - 1658年7月31日
戴冠式1658年2月14日
別号パードシャー
全名シハーブッディーン・ムハンマド・フッラム(シャー・ジャハーン)
出生1592年1月5日
ラホール
死去1666年2月1日(74歳没)
アーグラ、アーグラ城
埋葬タージ・マハル
配偶者ムムターズ・マハル
ほか
子女ダーラー・シコー
シャー・シュジャー
アウラングゼーブ
ムラード・バフシュ
ジャハーナーラー・ベーグム
ラウシャナーラー・ベーグム
ガウハーラーラー・ベーグム
ほか
王朝ムガル朝(ティムール朝)
父親ジャハーンギール
母親ビルキース・マカーニー・ベーグム
宗教イスラーム教(スンナ派)
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シャー・ジャハーン(ペルシア語: ????????? ???? ??? ???? Sheh?bo'd-D?n Mo?ammad Sh?h Jah?n, 1592年1月5日 - 1666年1月22日)は、ムガル帝国の第5代君主(在位:1628年 - 1658年)。第4代君主ジャハーンギールの三男。母はビルキース・マカーニー・ベーグム。
1612年、ペルシア系の大貴族アーサフ・ハーンの娘ムムターズ・マハルと結婚した。晩年の父とは対立し、デカンに退いていた。
1628年はじめにアーグラで即位したシャー・ジャハーンは、内政面ではムガル帝国の最安定期を演出した。外部では1636年にアフマドナガルにあったデカン・スルターン朝のひとつアフマドナガル王国を打倒・併合し、デカン地方で領土を拡大した。だが、アフガニスタンではサファヴィー朝と衝突してムガル・サファヴィー戦争
を起こしたが、カンダハールを獲得することができなかった。シャー・ジャハーンの時代はインド・イスラーム文化の最盛期であり、美術や建築などの華が咲いた。シャー・ジャハーンはまた、妃ムムターズ・マハルの墓廟であるタージ・マハルの建造者としても有名な人物である。当時、ヨーロッパから訪れた旅行者はシャー・ジャハーンを「壮麗王」(the Magnificent)として称えた。
ムムターズ・マハルの死後、シャー・ジャハーンは側室を増やし、多数の家臣の妻と関係を持つようになった[1]。シャー・ジャハーンは、20年以上にわたりこのような生活を続けたため、1657年に重病となった。そして、その病状に回復の見込みがないとわかると、その4人の息子の間が帝位をめぐり激しく争うこととなった[1]。
シャー・ジャハーンは長男ダーラー・シコーを後継者としていたが、次男のベンガル太守シャー・シュジャー、三男のデカン太守アウラングゼーブ、四男のグジャラート太守ムラード・バフシュはこれを認めていなかった。結局、1658年に勝利したアウラングゼーブが皇位を継承し、シャー・ジャハーンはアーグラ城塞に幽閉され、亡き愛妃の眠るタージ・マハルを眺めながら、1666年に74歳で死去した。
生涯[ソースを編集]
誕生・宮廷の対立[ソースを編集]ジャハーンギールとフッラム
1592年1月5日、シャー・ジャハーンことフッラムは、ムガル帝国の皇帝ジャハーンギール(当時は皇帝ではなく、名前もサリーム)とラージプートの王妃ビルキース・マカーニー・ベーグム(ジョーダー・バーイー、ジャガト・ゴーサーイン)との間に生まれた[2][3]。母はマールワール王国の君主ウダイ・シングの娘であった。
フッラムは6歳の時、祖父アクバルの命により生母から引き離され、アクバルの妃の一人ルカイヤ・スルターン・ベーグムによって養育された。これはアクバルがフッラムの素質を見抜いたからとされ、ルカイヤは君主にとって必要な責務などを教え込んだ。
その後、1605年に皇帝アクバルが崩御し、父サリームがジャハーンギールとして皇帝に即位した。
1610年以降、ジャハーンギールが病気の発作を起こしはじめ、政治はフッラム、宰相のイティマード・ウッダウラ、皇帝の妃のヌール・ジャハーン、その弟アーサフ・ハーンが担当する形となった[4]。彼ら4人はジャハーンギールに対して大きな影響力を持った[4]。
1612年5月、フッラムはアーサフ・ハーンの娘アルジュマンド・バーヌー・ベーグムと結婚した。彼女には宮廷の光を意味する「ムムターズ・マハル」の称号が与えられた。2人は仲睦まじく、どこへ行くときも一緒であった。彼らの間には14人の子が生まれ、息子はダーラー・シコー、シャー・シュジャー、アウラングゼーブ、ムラード・バフシュ、娘はジャハーナーラー・ベーグム、ラウシャナーラー・ベーグム、ガウハーラーラー・ベーグムが成人した。
同年以降、ジャハーンギールの妃ヌール・ジャハーンが実権を握り、事実上の皇帝というところとなり、宮廷には緊張が走っていた[5]。フッラムもまた、ジャハーンギール崩御後の後継者となるべく、ほかの3人の兄弟フスロー、パルヴィーズ、シャフリヤールと争わなければならなかった[5]。皇族以外の有力者では、ヌール・ジャハーン、アーサフ・ハーン、マハーバト・ハーンがそれぞれ加わった。
祖父帝アクバルの治世以来、ムガル帝国はデカン地方に介入するようになっていたため、フッラムは若年にしてデカンへの遠征にも派遣され、宮廷を離れることもしばしばだった[5]。