シャール_2C
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シャール2Cシャール2C「Berry」号、1928年
性能諸元
全長

10.185 m ※誘導輪前端から起動輪後端まで(履帯含む)

12.2 m ※尾橇装着時

車体長9.045 m ※誘導輪?起動輪間軸間距離
全幅2.95 m
全高4.09 m
重量69 t
懸架方式リーフ式サスペンションボギー式
直流無断階変速方式
後輪駆動
速度15 km/h
行動距離150 km
主砲modele 1897 75mmカノン砲
(弾薬 124 発)
副武装ホッチキス Mle1914 8mm機関銃 4挺
(弾薬 9,500 発)
装甲

車体

車体正面上/下部 45/30 mm

車体側面 25?22 mm

車体天/底面 10/18?15 mm


砲塔=

前/側面 35/30 mm

天面 13 mm


エンジン
マイバッハ 直列6気筒液冷ガソリンエンジン 2基 ※最終状態
250 HP x 2

直流発電機(600 VA)/電動機 各 2基


乗員12 名
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シャール 2C(FCM 2Cとしても知られる)は、第一次世界大戦中にフランスで開発された超重戦車であり、多砲塔戦車である。

なお、“シャール(Char)”とは元来はフランス語チャリオット英語では“Chariot”)、すなわち古代の戦闘用馬車のことで、転じて近代兵器としての戦車を指す。“Char 2C”とは正確に訳すれば「2C型戦車」という意味となる。
概要

シャール 2Cは第一次世界大戦中に計画・開発されたフランス初の実用型重戦車である。しかし、その計画には様々な困難と問題があった上、フランス軍には実用化の意思が薄かったため、第一次大戦中には完成しなかった。

戦後にようやく10両が生産されたが、より先進的な戦車が1920年代から1930年代を通して開発され、本車の兵器的価値はゆっくりと減少した。第一次世界大戦後に「戦車」というものの実用性と運用思想が固まっていく中で、明らかに旧式の思想で開発された本車には有用性が見出されず、もっぱら士気高揚のプロパガンダに利用されていた。

第二次世界大戦においてはすでに旧式化しており、実戦配備はされたものの、撤退に伴う輸送中に行動不能となって自爆処分され、戦闘を経験することはなかった。

本車は実用上必要な性能を達成して実用化されたフランス唯一の超重戦車となった。電気式駆動機構で実用化された数少ない戦車の一つであり、10mを超える車体長は実用戦車としては21世紀に至っても史上最大である。重量的にもある時点までは世界で最も重い戦車で、第二次世界大戦後期にティーガーII重戦車が開発されて実戦投入されるまでは、本車は世界最大にして最も重い戦車であった。
開発
開発までの経緯

第1次世界大戦2年目の1916年9月15日イギリスは最初の戦車であるマークIを配備した。様々な実用上の問題はあったものの、「戦車」は衝撃的なデビューを飾り、これを受けてフランス国民も自国が計画する戦車開発に強い興味を抱くようになった。

フランス陸軍全体としての開発方針は軽快で快速な中?小型の戦車の開発を考える派が優勢であり、技術的困難が大きいと予想される重戦車には冷淡で、幾つかの指針でも「重戦車は不要である」という判断であったが、重戦車推進派の砲兵副長官、レオン・ムーレ(Leon Augustin Jean Marie Mouret)将軍は、内密に重戦車の開発を推進し、フランス南部、トゥーロンの南にあるラ・セーヌ=シュル=メールに所在する造船所であるFCM社(Forges et Chantiers de la Mediterranee:地中海鉄工造船所(仏語版))に独断で重戦車開発と試作車の生産を発注しており、同社の装甲戦闘車両開発の責任者に任命された、ジャミー(Jammy)とサヴァティエ(Savatier)の両技師のチームにより1917年の末には最初の試作車が完成していた。詳細は「FCM1A (戦車)」を参照

1917年、自らが主導した大攻勢の失敗で更迭された前最高司令官、ロベール・ニヴェル将軍に変わりフランス軍の新最高司令官となったフィリップ・ペタン将軍は、戦車開発方針について対立していたムーレの失脚により戦車開発を掌握した、軽戦車推進派でフランス最初の実用戦車、シュナイダーCA1の開発者でもあるジャン・エスティエンヌ[注釈 1](仏語版))准将に対し、これ以上の計画を終了させるよう要請した。エスティエンヌは表面的には同意しつつも、「重戦車は軽量型戦車に優先して生産される必要はないが、それらが必要とされる局面がまったく無いということはなく、重戦車が活用される状況は限定的ながら、投入する局面を誤らなければ大きな戦力になる」と考えており、少数ではあっても重戦車を装備した部隊を編成することを構想していたため、計画の続行を承認させ、試作車を用いた試験も続けられることになった。
2C戦車の誕生まで

こうしてフランスで重戦車の開発が進む一方で、連合国は1919年の春に再び大規模な攻勢を行うことを計画していた。この大攻勢計画では、これまでの失敗を踏まえて連合国の各軍・各兵科が高度に連携した作戦行動を行うことが必須であるとされ、エスティエンヌはこの大攻勢を自らの構築した機甲部隊運用の理論を実践する最初の(そしておそらく最後の)機会と考え、多数の軽量級戦車とそれを支援するための相当数の重戦車の整備を訴えた。

しかし、現実問題としてフランスの国家経済は当初の予想を大幅に上回る期間の戦争で人的にも財政的にも資源的にも疲弊しており、エスティエンヌ始め軍部の求めるような規模の戦力の整備は困難な状況になっていた。このようなフランスの状況を鑑み、「1919年大攻勢」の実施が危ぶまれることを懸念したイギリスから、アメリカ・イギリス・フランスの三国共同で開発・生産する計画が進行中であるマークVIII型戦車(英語版)を、フランスが重戦車を自前で生産する労力を形だけでも払った場合、最大で700両をフランスに対し供与する、という提案がなされた。これは要するにフランス軍向けのマークVIII型戦車の大部分をイギリスが負担する形で提供する、というものである。

この提案は、重戦車の必要性を感じつつも主力となる軽量級戦車の生産に影響を及ぼしたくないエスティエンヌと、重戦車開発計画そのものを不要と考えるペタンにとっては実に好都合で、フランス軍は新型戦車を最小の労力で入手すべく、自国の重戦車開発計画を表面上支持すると共に、実際には計画が実行されないように取り計らうことにした。


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