この項目では、アメリカの映画女優・外交官について説明しています。
カクテルについては「シャーリー・テンプル (カクテル)」をご覧ください。
子供服ブランドについては「シャーリーテンプル (ブランド)」をご覧ください。
Shirley Temple
シャーリー・テンプル
シャーリー・テンプル(1948年)
本名シャーリー・ジェーン・テンプル
別名義Shirley Jane Temple
生年月日 (1928-04-23) 1928年4月23日
没年月日 (2014-02-10) 2014年2月10日(85歳没)
出生地 カリフォルニア州
国籍アメリカ合衆国
職業女優、外交官
ジャンル子役、司会など
活動内容映画、テレビ、著作
配偶者ジョン・エイガー(1945-1950)
チャールズ・ブラック(1950-2005)
著名な家族リンダ・スーザン(娘)
チャールズ(息子)
ロリー(娘)
公式サイト ⇒Official Shirley Temple Web Site
主な作品
『ハイジ』
『輝く瞳』
『テンプルちゃんお芽出度う』
『テンプルの福の神』
受賞
アカデミー賞
アカデミー賞特別賞(1935年)
その他の賞
全米映画俳優組合賞生涯功労賞
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シャーリー・ジェーン・テンプル (英: Shirley Jane Temple、結婚後はシャーリー・テンプル・ブラック、英: Shirley Temple Black:1928年4月23日 - 2014年2月10日)[注釈 1]は、アメリカ合衆国のハリウッド女優。身長157cm。
テンプルは1930年代のアメリカを象徴するスター俳優であった。フォックス・フィルム社の子役として登場した時、大物プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンは「シャーリーはいくつになっても素晴らしい才能を発揮するだろう」と語ったと伝えられる。その言葉どおり、女優、政治家、外交官、企業の社外役員など、6歳から85歳で亡くなるまでアメリカの名士であり続けた。なお、シャーリー・テンプル・ブラック大使 (英: Ambassador Shirley Temple Black)とも呼ばれた。2014年2月10日、カリフォルニア州サンフランシスコ市郊外のウッドサイドの邸宅で死去。 アメリカで定着したシャーリー・テンプルのイメージは勤勉できまじめ、温かく優雅で品行方正な女性であり、伝説的な映画俳優としても著名な人物である。1930年代から60年代にハリウッド映画界で女優として活躍、特に1930年代に高い評価を得た。たった6歳で伝説的な天才子役と呼ばれ、またしばしばコカコーラや自由の女神と比較されるほど、国外でも知名度を得ていく。10代はアイドルとして芸能活動をつづけ、1950年、幸福な結婚をして映画界を引退。 テンプル自身は人生に「女優、母親、外交官の3つの時代があった」と述べており、映画界の人気スター、10年ほど3人の子供を育てるかたわらテレビ番組に出演した第2期、やがて第3の時期にあたる40代より外交官や数社の社外役員などを務めている。 テンプル家は厳密にはペンシルバニア・ドイツ人が混ざった家系でありながら、ワスプに数えられた。一族はキリスト教の宗派の長老派清教徒で、代々医者か弁護士か銀行員を職業としてきた。清教徒には伝統的に実業を重んじ、演劇や映画を軽視する傾向があるため、シャーリーが少女スターになった時、一族の反応には複雑なものがあったと伝えられる。 父方の祖父は医師、父ジョージは銀行員(後に実業家)で、娘が生まれたとき当時の大手銀行30社のひとつカリフォルニア銀行のサンタモニカ支店長[3][注釈 2]。 母方の祖父はドイツ系の宝石・時計商、母ガートルードは専業主婦である。 2人の兄はそれぞれスタンフォード大学と陸軍士官学校を卒業、FBIの幹部と海兵隊の士官を務めている。 1928年生まれ、カリフォルニア州サンタモニカの上品な住宅街で育つ[4]。この州で人生の大半を過ごしており、清教徒らしく勤勉でまじめなうえ、いかにもカリフォルニア生まれらしい、明るく積極的な性格だった[5]。 母親は妊娠中、音楽や美しい絵、きれいな風景に接して胎教につとめた。生まれてきた娘が赤ん坊の時からダンスと音楽に強い関心を示したという「シャーリー・テンプルの胎教」のエピソードは、アメリカではよく知られている[注釈 3][6][7]。家庭は円満で両親に愛情を注がれて育つ。栄養を考えた食事、適度な運動と日光浴、規則正しい生活によって3歳までほとんど病気をしていない。既に10代だった2人の兄に手がかからなかったため、母親はもっぱらシャーリーの世話をして一緒に歌ったり踊ったりして過ごした。3歳の頃(1931年)、娘がダンスと音楽に強い関心を示すと母親はメグリン・ダンス学校(Meglin's Dance School 目の色は茶色、髪の色は生後7歳ぐらいまで金髪、8歳ぐらいから赤みを帯びておよそ10歳の時には茶色になった。やがて大人になるとほぼ黒髪といっていい。 シャーリー・テンプルの映画の題名については混乱を避けるため、現在販売されているDVDのタイトル他もっとも一般的なものに合わせて記しておく。もちろんウィキペディアの日本語版では『小聯隊長』『テムプルの愛国者』など、戦前公開時の表記を当てるものもある。日本で公開されたときの題名はシャーリー・テンプルの出演作品を参照[9]。 1932年から1933年にかけて出演した短編映画はユニバーサル映画社の下請けだったエデュケーショナル社(英語 Educational Pictures
概説
経歴
家族映画『Glad Rags to Riches』(1933年)の一場面子役時代のシャーリー・テンプル(右)とエレノア・ルーズヴェルト大統領夫人(1938年)。アメリカ国立公文書記録管理局提供。写真は夫人にシャーリーが贈ったサイン入りのブロマイドで、実物は現在ルーズヴェルト大統領記念館に展示。映画『テンプルちゃんの小公女』(1939年)の一場面
生い立ち
少女スター誕生
フォックス・フィルム社(20世紀フォックス社の前身)に見出されると1933年に7年契約を結び『歓呼の嵐』に出演、準主役だが高い評価を受ける。次にパラマウント映画社に貸し出されて『可愛いマーカちゃん』の主役をつとめ、一夜にしてアメリカを熱狂させた。さらに『ベビイお目見得』も主演、この作品を見たフランクリン・ルーズベルト大統領は定期的に行うラジオ演説「炉辺談話」で「大不況のさなか、わが国民が映画で見るシャーリー・テンプルの笑顔に励まされ苦労を忘れることは素晴らしい」と全国民に向けて述べている[注釈 4]。
6歳にしてフォックス・フィルム社の看板女優になったばかりでなく、映画会社の予測をはるかに超え、たちまちアメリカ映画界で最も人気のあるスターの座へと昇り詰める。