シャープ兄弟
タッグチーム
メンバーベン・シャープ
マイク・シャープ
名称.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}
ザ・シャープ・ブラザーズ
シャープ兄弟
デビュー1947年
解散1960年[1]
団体
NWA
JWA
シャープ兄弟(シャープきょうだい、The Sharpe Brothers)は、カナダ出身の兄弟によるプロレスのタッグチームである。日本プロレス協会主催のプロレス興行「蔵前国技館3連戦」に参戦するため1954年にボビー・ブランズらと共に来日し、日本のプロレスブームの火付け役となった。観客からの激しい憎悪を浴びるヒールであったが、兄弟共に大の親日家であった[2]。 カナダ・オンタリオ州ハミルトン出身。祖父がプロレスラー、父がプロボクサーという格闘技一家に生まれ、1947年にトロントでプロレスデビュー。1949年にカナダからアメリカに渡り、世界タッグ王座を獲得。 1954年に世界タッグ選手権者として来日し、2月19日に力道山&木村政彦とタッグマッチで対戦。この試合が日本初のプロレスの国際試合とされる[4]。日本テレビとNHKが同時中継し、新橋駅西口広場の街頭テレビには2万人の群衆が殺到したという。初来日の際は5回対戦し、王座を保持したまま帰国した。 1956年4月にチャンピオンとして再び来日。5月4日に力道山&遠藤幸吉にタイトルを奪われるが6日後に奪回し、王座を死守して帰国した。 チームとしてのキャリア末期となる1960年には、エドワード・カーペンティア&サンダー・ザボー、エンリケ・トーレス&レオ・ノメリーニ、ディック・ハットン&サム・スティムボート、エル・グラン・ロザリオ&ジョー・スカルパ、ファビュラス・カンガルーズ(アル・コステロ&ロイ・ヘファーナン)、レッド・バスチェン&ルー・バスチェンなどのチームと対戦した[1]。 1962年にベンが引退後もマイクは現役を続け、同年6月4日には大阪府立体育館でバディ・オースチンをパートナーに力道山&豊登からアジアタッグ王座を奪取している[5]。マイクは1964年に引退した。
メンバー
兄:ベン・シャープ(Ben Sharpe、1916年3月18日 - 2001年11月21日)身長197cm、体重112kg。1936年ベルリンオリンピックのボート競技のエイト種目にカナダ代表として出場[3]。力道山に敬意を表して息子をリキ・シャープと命名した。
弟:マイク・シャープ(Mike Sharpe、1922年7月11日 - 1988年8月11日)身長199cm、体重119kg。息子のアイアン・マイク・シャープ(マイク・シャープ・ジュニア)もプロレスラーとなり度々来日した。
来歴
2月19日(東京・蔵前国技館) ノンタイトル61分3本勝負。1?1から時間切れ引き分け。
2月20日(東京・蔵前国技館) 3大シングルマッチ。力道山は2?1でベン・シャープに勝利、マイク・シャープは2?1で山口利夫を破り、木村政彦とボビー・ブランズは引き分け。
2月21日(東京・蔵前国技館) 世界タッグタイトルマッチ。1?1の引き分けで王座防衛。
2月27日(大阪府立体育館) 2度目の世界タッグタイトルマッチ。1?0のまま時間切れで王座防衛。
3月6日(東京・蔵前国技館) 3度目の世界タッグタイトルマッチ。1?0のまま時間切れで王座防衛。
4月24日(東京・蔵前国技館) 力道山&遠藤とノンタイトルで対戦。61分フルタイム引き分け。
4月25日(東京・蔵前国技館) 東富士とベンは両者リングアウトで引き分け、遠藤は2?1でシモノビッチに勝利、力道山はマイクとシングルで対戦し2?1で勝利。
4月26日(東京・蔵前国技館) 力道山&遠藤と世界タッグタイトルマッチ。1?1からドクターストップ引き分けで王座防衛。
5月2日から5月4日(大阪府立体育館で3連戦) 5月4日、タイトルマッチ時間無制限1本勝負。力道山が39分34秒にベンを体固めで破り世界タッグ王座初奪取。
5月10日(札幌中島スポーツセンター) 力道山&遠藤に挑戦。今度は61分3本勝負で行われ1?0で時間切れ。6日ぶりに王座を奪回。
6月7日(東京・蔵前国技舘) 力道山&遠藤との最終戦。1?1のまま時間切れ引き分けで王座を死守。
脚注^ a b “Matches: Sharpe Brothers
^ ミスター高橋『知らなきゃよかった プロレス界の残念な伝説』宝島社、2018年。ISBN 9784800289216 pp.168-169
^ (英語) ⇒The Official Report of the Organising Committee for the Games of the XI Olympiad Berlin 1936 (PDF). p. 1018. ⇒http://library.la84.org/6oic/OfficialReports/1936/1936spart5.pdf
^ これ以前にも、在日駐留米軍所属レスラーとの親善試合がおこなわれていた。NHK大阪放送局発行「こちらJOBK」によれば、1954年2月6日にNHK大阪テレビジョン実験局は「全日本プロレス協会主催・毎日新聞社協賛、マナスル登山隊後援日米対抗試合」を大阪府立体育館から大阪ローカルで中継放送した。本放送であることを除けば、これが日本最初のテレビ中継である。
^ “ ⇒All Asia Tag Team Title Title”. Wrestling-Titles.com. 2021年4月29日閲覧。
関連項目
シャープ - シャープ兄弟のスポンサーを前身である早川電機が務めた。
兄弟スポーツ選手一覧
外部リンク
⇒Online World of Wrestling
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