千葉謙介により開発された空気銃の「シャープ (空気銃メーカー)」とは異なります。
シャープス銃
種類ライフル、カービン
原開発国 アメリカ合衆国(ユニオン)
運用史
配備期間1850?1881
開発史
開発者クリスティアン・シャープス
シャープス銃(シャープスじゅう)は、1848年にアメリカ合衆国のクリスティアン・シャープス(英語版)が設計した単発形式の小銃、ならびにこれを母体とする小銃群(シリーズ)。1881年に生産終了となったが、長射程および正確性により高い評価を得た。1874年にかけて複数種の口径が開発され、アメリカ国外でも多くの国で軍用の兵装として制式採用された。金属薬莢への移行に成功した数少ない小銃のひとつでもある。
シャープス銃の復刻生産は現在も行われているが、19世紀当時のシャープス銃の生産企業とは無関係である。西部開拓時代を描いた映像作品や書籍(西部劇)にも数多く描かれることから、西部開拓時代を代表する銃器としても認知されている。 最初のモデルの特許は1848年9月12日に取得され[1]、生産は1850年にペンシルバニア州ミル・クリークのA・S・ニップス社で行われた[2]。 2代目のモデルにはメイナード・テープ式雷管
歴史
次いで同1851年に15,000挺の小銃を発注する「第二契約」(Second Contract) が結ばれ、シャープス・ライフル・マニュファクチャリング(英語版)社が資本金1,000ドルの株式会社として結成された。同社ではジョン・C・パルマーが社長、クリスティアン・シャープスが設計担当、またリチャード・S・ローレンスは製造部門の長と生産の監督を兼任した。シャープスには銃1挺につき1%の特許権使用料が支払われることとなり、R&L社が所有するコネチカット州のハートフォードの敷地内に工場が建設された[2]。
モデル1851はモデル1853の生産が始まるとこれに代替されていった。1853年、シャープスは新たに小銃製造会社をフィラデルフィアに立ち上げることとなり、シャープス・ライフル・マニュファクチュアリング社を退社した。一方で製造部門長であったリチャード・S・ローレンスは同社に留まり、1872年まで製造主任を務めシャープス銃の派生型を開発した。ローレンスを長として行われた改良は、これらの小銃を有名なものにした[2]。1874年にシャープス・ライフル・マニュファクチュアリング社は改組のうえ「シャープス・ライフル社」と改称、1876年までハートフォードで製造を続けたのち、コネチカット州のブリッジポート_に移転した[2]。
1874年式のシャープス銃は特に人気のあった小銃で、矢継ぎ早にいくつもの派生型が世に出るに至った。この銃は多様な装薬量と口径長が取り扱え、また多くの.40口径から.50口径の弾薬が使用できた[3][4]。
シャープス・ライフル社が製造した最後のシャープス銃はヒューゴ・ボーチャードの設計したシャープス・ボーチャード モデル1878(英語版)で、このモデルは1881年にシャープス・ライフル社が閉鎖されるまで生産された[2]。
一部の小銃(紙製薬莢を使うシャープスM1859、M1863小銃・カービン銃、金属製薬莢を使う1874シャープス小銃、シャープス・ボーチャード モデル1878)は現代でも復刻生産されている。これらの銃は南北戦争の再演イベント(英語版)の際に使用されるほか、狩猟や競技射撃でも使われている[5]。
シャープス軍用小銃およびカービンシャープス モデル1852「斜状閉鎖」カービン。装填のため薬室を開放。雷管テープ2個が傍に置かれている。
軍用シャープス銃、またはベルダン・シャープス小銃としても知られるタイプはフォーリングブロック・アクションを採用した小銃で、アメリカ南北戦争前後に使用された[6]。
標準的な雷管を使うことも可能だったものの、シャープス銃はかなり風変わりなペレット状雷管の装填方法を採用していた。これは多量のペレット状雷管を保持しておき、トリガーが引かれて撃鉄が落ちる度に、1個ずつ突起を越えて供給するという装置だった。馬上からシャープス銃を撃つ時、個々に雷管を詰める銃を使うより、射撃がより簡易になった。
シャープス銃はハートフォード時代のシャープス・ライフル・マニュファクチャリング社によって製造された。南北戦争時、本銃はアメリカ陸軍の狙撃兵に用いられ、中でもハイラム・ベルダンを指揮官とした「第2合衆国義勇狙撃兵連隊」が使用したことで知られている[7]。シャープス銃は当時普及していた前装式施条マスケットよりも狙撃が正確にできる点で卓越しており、マスケット銃よりも優れた狙撃銃となった。狙撃の正確性が向上した理由には、立膝やうつ伏せの姿勢からでもリロードが容易だったことに加え、薬室閉鎖機構がもたらす高い発射速度、製造の高品質さが挙げられる[8]。
しかし当時にあっては、多くの士官たちは兵員の弾薬を浪費するという理由から軍用シャープス銃を信頼していなかった。加えてシャープス銃は製造費用が高く、前装式のスプリングフィールド小銃の3倍ほどの値段となったため、モデル1859は11,000挺が生産されるに留まり、しかもその大部分は配備されないか狙撃手のみに支給された。ただし旧式化したライフルを使用していた第13ペンシルバニア予備役連隊(英語版)はこの小銃を採用し、1864年に制式廃止となるまでこれを装備していた[8]。
シャープス軍用カービンオリジナルの1863カービン銃。使用弾薬は.50-70ガバメント弾。
本銃のカービン版は北軍・南軍両方の騎兵にとって非常に一般的なものであり、同時期に使用されたカービン銃よりもはるかに多い数が交付され、正規の全長を持つ小銃よりもはるかに多数が支給され、生産量でもスペンサー銃やバーンサイド・カービン(英語版)を上回った。フォーリングブロック作動方式は1860年代後半に新しく開発された金属薬莢への換装に向いており、こうした.50-70ガバメント弾に換装したカービンの多くは、南北戦争後も数十年にわたって続いたインディアン戦争へ投入された[6]。
南北戦争中に作られた少数のカービンには、銃床に手動の粉挽き機が付属するという変わった特徴があった[9]。長きにわたってこの粉挽き機はコーヒーミルと考えられていたが、現存する小銃で実験を行ったところ、この粉挽き機はコーヒーミルには向かないことが判明した。今日では、この粉挽き機はトウモロコシや小麦を挽くために設けられていたとするのが共通認識となっている[10]。
シャープス小銃と異なり、カービンの方は非常に人気があり、90,000挺近くが生産された[8]。南北戦争時の北軍騎兵連隊では、1863年までは本銃が最も一般的な兵器として装備されたものの、1864年にはその多くが7連発スペンサー銃に代替された。シャープス銃の模造品の中には南軍によりリッチモンドで生産されたものもあったが、品質は一般的に低く、こうした銃は多くの場合鉄の代わりに真鍮の部品を用いた[11]。
シャープス競技用小銃