シャーフィイー
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ムハンマド・ブン・イドリース・シャーフィイー

アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・ブン・イドリース・シャーフィイー(アラビア語: ???? ????? ???? ?????? ??? ?????? ???????????‎, Ab? ?Abdull?h Muhammad b. ?Idr?s al-Sh?fi??)は、イスラーム法学者の一人。西暦767年に生まれ820年に没した(ヒジュラ暦150年-204年)。シャーフィイーは、スンナ派法学における四人の偉大なイマームの一人とされ(イマーム・シャーフィイー)、しばしば「シャイフル・イスラーム」(Shaykh al-Isl?m)と呼ばれる。シャーフィイーの教えの流れを汲む弟子たちは、「シャーフィイー法学派」という法学派(マズハブ)を形成した。[1]
目次

1 導入

2 生涯

2.1 先祖

2.2 生い立ち

2.3 イマーム・マーリクの下での修行

2.4 イエメンの内乱

2.5 シャイバーニーの下での修行、そしてハナフィー派法学者に対する考え

2.6 バグダードとエジプトへの旅立ち

2.7 晩年


3 レガシー

3.1 著作


4 注釈

5 出典

6 外部リンク

導入

シャーフィイーの足跡を正確にたどるのは難しい。ダーウード・ブン・アリー・ザーヒリー(英語版)がそうしたシャーフィイーの伝記を書いた最初の人物であると言われているが、現代に伝存していない[2][3][4][要ページ番号]。現伝する最古の伝記は、イブン・アビー・ハーティム・ラーズィー[注釈 1]のものであるが、アネクドートを寄せ集めたに過ぎないものであり、しかもその中には荒唐無稽なものも含まれている。その後、ザカリーヤ・ブン・ヤフヤー・サージー(Zakar?yah b. Yahya al-S?j?)により、シャーフィイーの生涯の大まかな流れが記述されたが、それでさえも多数の伝説がすでに入り込んでしまっている[5]。実質的に最も古いシャーフィイーの伝記は11世紀のアフマド・バイハキー(英語版)が書いたものになる。
生涯
先祖

シャーフィイーは、クライシュ族に属するクランの一つ、バヌー・ムッタリブ(ムッタリブ家)に属する。このクランは、ムッタリブ・ブン・アブド・マナーフ(英語版)を共通の父系先祖に持つ集団であり、預言者ムハンマドアッバース朝カリフたちが属すバヌー・ハーシム(英語版)(ハーシム家)とは、ムッタリブからさらに父系を遡った上の世代に、共通の先祖を持つ関係にある。こうした出自は、シャーフィイーに威信を与えたようである[5]。彼は貧しい育ちながら、社会の上層とのつながりを持った。
生い立ち

シャーフィイーは、ヒジュラ暦150年(西暦767年)、ガザにて生まれた[6]。父イドリース・ブン・アッバースは、シャーフィイーが幼い頃にシャーム地方で亡くなり、シャーフィイーは、せっかくのシャリーフの血統が活かされなくなることを恐れた母に連れられて、2歳のときにメッカに移住した。母はイエメンからの移住してきた家系に属していたので、ガザよりもメッカの方が親戚も多く、よりよい暮らしができると考えたと見られる。シャーフィイーがメッカでどのような子ども時代を過ごしていたのか、ほとんど知られていないが、経済的に苦しい環境で育てられたこと、そして、幼い頃から学問に没頭していたことだけはよく知られている[5]。一説によると、シャーフィイーの家は紙を買う余裕がなかったので、シャーフィイーは動物の骨を使って字を書く練習をしたという[7]。シャーフィイーは、当時メッカのムフティーを務めていたムスリム・ブン・ハーリド・ザンジー(Muslim b. Kh?lid az-Zanj?)という人物に学問を習ったといい、そのためザンジーは「イマーム・シャーフィイーの最初の師」と考えられている[8]。シャーフィイーは7歳までに聖典クルアーンをすべて暗誦できるようになり、10歳のときにマーリク・ブン・アナスの著した『ムワッター(マーリク師の聖訓集)(英語版)』をすっかり暗記した。その頃には、ザンジー師がいないときには代わりに講義をするよう師に命じられ、15歳のときにはファトワーを出す権限を与えられた[9]
イマーム・マーリクの下での修行

シャーフィイーは、マディーナへ行って、さらなる法学的研鑽を積もうと考えた[5]。当時マディーナ遊学は知識を得るためによく行われていたことであった。彼がマディーナへと発った時期については諸説あり、一説では13歳とされるが[6]、別の一説では20歳代の頃の話だという[5]。シャーフィイーはマディーナでマーリク・ブン・アナスに弟子入りして、何年もの間マーリクと共に学んだ[10]。マーリクは弟子の記憶力、知識、知性に舌を巻いた[6][11]。マーリクが亡くなった頃(179 AH/795 CE)には、シャーフィイーは既に法学者として輝かしい評判を得ていた[5]。シャーフィイーは後に、法学上の諸問題について、マーリクの見解に異を唱えることになるが、それでもマーリクを常に「師匠」と呼んで深い尊敬を示した[6]
イエメンの内乱

シャーフィイーは30歳のとき、アッバース朝によりイエメンの町、ナジラーン(現サウジアラビア領)の代官に任ぜられた[6][10]。シャーフィイーは為政者として公正であることを示したが、まもなく党派争いに巻き込まれ、シーア派の反乱を幇助した廉で西暦803年に逮捕された。シャーフィイーは反乱を起こしたシーア派と共に、鎖につながれたまま、カリフの御座所であるシャーム地方ラッカに呼び出された[5]。一説によれば、このときシャーフィイーは、他の反乱者たちが次々死刑になる中で、滔々と自己を弁護し、ついに教主ハールーン・ラシードに無罪を確信させたという。別の一説によれば、ハナフィー派法学者ムハンマド・シャイバーニーがカリフの宮廷におり、シャーフィイーを聖法の一学徒として有名であるなどと、とりなしたため救われたという[5]。いずれにせよ、この事件がきっかけで、シャーフィイーはシャイバーニーと親しくなり、彼に弟子入りした。また、残りの人生を法学研究に捧げることにシャーフィイーを駆り立て、二度と仕官の道を探そうとしなかったことには、この不運な事件が原因としてあったと考えられている[5]
シャイバーニーの下での修行、そしてハナフィー派法学者に対する考え

シャーフィイーはバグダードへ行き、シャイバーニーを含むアブー・ハニーファの弟子たちと共に学んだ[10]


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