シャンモル修道院
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1686年のシャンモル修道院。回廊を囲むように小さな僧院が配置され、中央にクラウス・サリューテエルの『モーゼの井戸』がある。

シャンモル修道院(シャンモルしゅうどういん(: Charteuse de Champmol))はディジョン郊外に位置するカルトジオ会修道院。現在のディジョンはフランス中部の都市だが、15世紀ブルゴーニュ公国の首都だった。シャンモル修道院はブルゴーニュ公フィリップ2世(フィリップ豪胆公)がヴァロワ=ブルゴーニュ公爵家の墓所として1383年に建設し[1]フランス革命のさなかに接収されるまで歴代ブルゴーニュ公爵の墓が置かれていた。「悪評高き壮大な浪費」といわれるほど[2]、数々の美術品が惜しみなく使われており、後世に修道院から散逸したそれらの美術品のコレクションは依然として当時の芸術を理解するための非常に重要な遺産となっている[3]
歴史
設立修道院教会正門にある、ひざまずくブルゴーニュ公フィリップ2世と公后マルグリットの彫刻。クラウス・スリューテルとその工房作

土地購入と建築資材用の採石は1377年に開始されているが、実際に建設に取りかかったのは1383年のことである[4]。スラウスで大公の城館の設計経験があり、ルーブル城館の改築にアシスタントとして参加したこともあるパリ出身の建築家ドリュエ・ド・ダンマルタンのもと建設が開始される。ディジョンで顧問団が結成され、他出することが多かったフィリップ2世に代わって建設作業を監督した。1388年には教会が完成し、主要な建造物がほぼ建設された。シャンモル修道院はカルトジオ会の修道院が通常12人の修道士なのに対し、24人の修道士で構成され[1]、後に1433年のシャルル(後のシャルル突進公)生誕を祝してさらに二人の修道士が与えられている[5]。修道士たちは礼拝堂にいないときは一人ずつ割り当てられた僧院で半ば隠遁的な生活を送っていた。修道士以外にも聖職には就いていない信徒や、使用人、修練者などが修道院に在住していたと考えられる。シトー会大修道院

シャンモル修道院は設立されたときにはディジョンの都市城門の外に位置したが[6]、現在の行政区画ではディジョン市内にある。当時のディジョンには約1万人が住んでおり、もともとのフィリップ2世の領地だったブルゴーニュ公国では最大の都市だったが、フィリップ2世がマルグリットとの結婚によって領有することになったネーデルラントのフランドル伯領などにはディジョンよりもさらに大きな都市があった。しかしブルゴーニュ公爵領は、必ずしも統治が行き届いているとはいえない北部の都市群に比べるとはるかに安定した地方であり、公国で一番の都市という称号は変わらなかった[7]。ヴァロア家が1361年に後を襲ったブルゴーニュ王朝カペー家一族が、ディジョン南部のシトー会大修道院 (fr:Abbaye de Citeaux) に16人以上葬られている。シャンモル修道院はこのシトー会大修道院、歴代フランス王家の墓所であるサン=ドニ大聖堂など、他の王朝の墓所となる寺院に対抗して建設された。

平穏な生活を送り沈思黙考を旨とするカルトジオ会の教義に反して、訪問者や巡礼者はシャンモル修道院で歓迎され、その費用は歴代ブルゴーニュ公による寄進でまかなわれていた。1418年にはモーゼの井戸に巡礼するための贖宥状が発行され、さらに多くの巡礼者が修道院を訪れた。修道院には公爵一族専用の、破壊され現存していない教会を見渡すことができる専用の小礼拝堂があったが、一族がそこを訪れることはほとんどなかった[8]。現存している公爵家の記録では、1415年までに多くの絵画や美術工芸品がシャンモル修道院のために注文され続けており、その後も数こそ少なくはなったが歴代公爵や篤志家たちによってさまざまなものが寄進されている。

シャンモル修道院に関する大公家の記録は十分な量が残っている。ハンブルク大学教授の美術史家マルティン・ヴァルンケ[9]はそれらの記録をもとに当時の宮廷芸術家の地位を明らかにし、「芸術と芸術家の独立意識[10]」こそが近世の芸術との大きな違いであるとした。
ブルゴーニュ公国崩壊後現在のシャンモル修道院の教会部分。

1477年のシャルル大公の死去以降ブルゴーニュ公国はフランス領となり、その後スペイン・ハプスブルク家の領土となった。


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