Chantilly
行政
国 フランス
地域圏 (Region)オー=ド=フランス地域圏
県 (departement)オワーズ県
郡 (arrondissement)サンリス郡
シャンティイ (Chantilly [???.ti.ji])は、フランス、オー=ド=フランス地域圏、オワーズ県のコミューン。
ノネット川谷の中、シャンティイの森の中心部にある。シャンティイ城の存在で世界的に有名であり、城内には一流の収集品を収蔵するコンデ美術館がある。また、ホイップクリームの一種、クレーム・シャンティイ(シャンテリー、fr)はシャンティイに由来している。そして競馬の存在も世界的に認識されている。シャンティイ競馬場ではジョッケクルブ賞とディアヌ賞の2レースが開催されている。まちとその周辺にはフランス国内最大規模の競走馬トレーニングセンターがある。
15世紀から17世紀まではモンモランシー家(モンモランシー公)と、17世紀から19世紀まではブルボン=コンデ家(コンデ公)と密接な関係にあった。
地理ノネット川と運河
地域圏南部、パリ盆地に位置する。歴史的にはヴァロワ地方に属する。シャンティイはボーヴェの南東約39km、パリの北約39kmにある[1]。周辺のコミューンとともに約37000人の人口の都市圏を構成し、これはオワーズ県第4位、地域圏第7位である。
まちはテーヴ川谷の南端に位置する。テーヴ川は全長33kmある、オワーズ川の支流である。谷はコメユ池が点在する。これらの人工池は、13世紀にシャリ修道院の修道士たちが魚の養殖用に設けたものである。
まちはまた、オワーズ川支流のノネット川が横切っている。 1150年にはCantiliacusの名で記された。シャンティイの名はおそらく、ガリア語の男性名Cantiliusに不動産を示す-acumを付けたCantiliacumからきている[2]。頻繁に行われた名称の説明には、campus tiliae(ボダイジュの原)があるが、これは学術的なラテン語を元とした偽の語源である。 1793年10月16日、国民公会は封建制度や王制、そして迷信を連想させる名称を持つ自治体を改名させ、シャンティイはシャン=リーブル(Champ-Libre)とされた。 先史時代や鉄器時代の人の定住の証拠はない。ローマ時代の墓から副葬品がノネット川近くで見つかっており、そしてガロ=ローマ時代にはシャンティイの森の中に道があった。7世紀メロヴィング朝時代の墓が、17世紀と19世紀に発掘された。 1223年頃、ギィ4世・ド・サンリスとサン=ルー=デスラン修道院の修道士の間でTerra cantiliaciの土地について初めて報告された。ギィ4世は王の執事長であり、シャンティイ領の創設者だった。当時のシャンティイは泥沢地にある岩で、ボーヴェ司教区とサンリス司教区の境界であった。1227年、シャンティイの地に要塞化された建物の存在が知らされている。パリ高等法院はその法令の中で実際にシャンティイの森全体について(in tota foresta chantiliaco)ふれている[3]。その後1358年にジャックリーの乱で城が破壊されたことが初めて伝えられ、1394年にピエール・ドルジュモンによって修復が完了した。百年戦争中には、イングランドとブルゴーニュの連合軍が包囲しようとしている。アジャンクールの戦いで戦死したピエール2世・ドルジュモンの未亡人、ジャクリーヌ・ド・ペネルは、城を要塞として提供しなければならなかった。その見返りとして全住民の命が助けられたが、すべての周辺の村は台無しにされた[4]。 16世紀、城の周りには小さな村落が点在していた。カンケンポワ集落(Quinquempoix)は最も城に近く、規模の大きなものだった[5]。この時代から村落は城の拡張を歓迎するようになった。1219年に存在を伝えられているサン=ジェルマン礼拝堂は17世紀の城拡張で失われた。カンケンポワ集落にあるいくつかの建物は、公爵の随行員を収容するため作られていた。1539年に建てられたオテル・ド・ボーヴェはアンヌ・ド・モンモランシーの狩りの同伴者を泊めるため、1553年に建てられたオテル・ド・カンケンポワは元帥の従者を収容するために使われた[6]。 元帥アンヌの父ギヨームは1515年に、教皇勅書によって城付属礼拝堂でミサをあげる権利と秘蹟を与える権利を獲得した。それは城と住民、向かい合う周辺の村とが独立した教区となる最初の兆候であった[7]。 1673年、大コンデはグーヴィユーへつながる新しい道路を開通させた。これが現在のコンネタブル通りである。通りの両側に付属する土地は、シャンティイの都市計画における最初の核で、賄いつきの宿、城の職人の工房、召使の住居が並んだ。この地区はまだ、ボーヴェ司教区に属するグーヴィユー教区、サンリス司教区に属するサン=レオナールの教区とに分かれていた[8]。 大コンデは城の近くに教区教会を建てることを自らの意思とした。コンデ公アンリ・ジュールは父の意を汲んで1692年にノートルダム教会の建物を建て、サンリス司教区に属する新たな教区教会とした。シャンティイは彼のための封土であった[9]。彼の孫にあたるルイ4世は、最初の計画を立てたシャンティイの真の創設者である。彼はグーヴィユーへの道に基づいて合理的な計画を練った。1721年に大厩舎建設が起動すると、公爵は1727年には通りの南を分割した。公爵は官吏(コンデ家に雇用されている者)に抽選で土地を売却した。その土地には芝生と同様に建築基準を満たす義務があった。これらの基準やファサードの設計は、大厩舎の建築家ジャン・オベールが決めた。これらは1730年から1733年の間に建てられた。1760年頃のシャンティイ磁器シャンティイ・レース 18世紀後半、多くの経済活動は常にコンデ公のイニシアティブによって着手された。
交通
道路 - A1。A16は、かつての王道で、ピエールフィット=シュル=セーヌからアミアンを経由してダンケルクまで通じていた。この道がコミューンを南から北へ横断する。この道は現在県道1016号線に数えられる。
鉄道 - TERピカルディー、シャンティイ=グーヴィユー駅。パリ北駅からはRER D線が通じる。
空港 - シャルル・ド・ゴール国際空港の半径30km圏内に位置する。パリ・ボーヴェ空港とは54kmの距離。
由来
歴史
古代から中世1780年代のカッシーニ地図に描かれたシャンティイ
新しい教区18世紀に描かれたシャンティイ城