シャルル10世
Charles X
フランス国王
ナバラ国王
シャルル10世(フランソワ・ジェラールの原画に基づくアンリ・ボネ
シャルル10世(フランス語: Charles X、1757年10月9日 - 1836年11月6日[1])は、復古王政のブルボン朝最後のフランス国王(在位: 1824年9月16日 - 1830年8月2日)である。ナバラ国王としてはカルロス5世(バスク語: Karlos V.a)。
即位以前にはアルトワ伯爵(comtes d'Artois, コント・ダルトワ)の称号で呼ばれる[2]。
フランス革命勃発後、すぐにロンドンに亡命して国内外の反革命を指導し、復古王政でも極端な反動政治を敷いて七月革命を引き起こした。
生涯アルトワ伯爵と妹クロティルド。フランソワ=ユベール・ドルーエ画、。
フランス王太子ルイ・フェルディナンと妻マリー=ジョゼフ・ド・サクスの第四子として、1757年に生まれた[2]。1773年にマリー・テレーズ・ド・サルデーニュ(兄プロヴァンス伯爵ルイの妻マリー・ジョゼフィーヌ・ド・サヴォワの妹)と結婚した[2]。数年のうちに5,600万フランに上る借金を背負うことになったが、国に肩代わりさせた[2]。アメリカ独立戦争期の1782年にジブラルタル包囲戦に参戦したが、軍人への道を進むというよりは放蕩した生活を送らないようにするための措置だった[1]。アンリ=ピエール・ダンルーによる肖像画、1798年。
フランス革命以前は政治にほとんどかかわらなかったが、革命が勃発するとフランス王妃マリー・アントワネットとともに宮廷の反革命派を主導した[2]。1789年7月のバスティーユ襲撃の直後、兄にあたるフランス王ルイ16世に命じられてフランスを脱出、オーストリア領ネーデルラント、ついでトリノに向かった[1]。以降エミグレ(フランスからの亡命者)の指導者として、オーストリア、プロイセン、ロシア、イギリスといったヨーロッパ諸国の宮廷を回って王党派への支持を集め、1791年にピルニッツ宣言を出させた[1][2][3]。1793年にフランス王ルイ16世が処刑され、1795年にその息子ルイ17世が死去すると、ルイ18世として即位を宣言したプロヴァンス伯爵からムッシュの称号を与えられた[2]。同年にもヴァンデの反乱への支援としてユー島に遠征(フランス語版)したが、それ以上の進軍を拒否、再度イギリスに亡命した[2]。イギリスではロンドン、ついでエディンバラのホリールード宮殿、バッキンガムシャーのハートウェル(英語版)に住んだ[2]。
1814年2月にフランスに戻り、第六次対仏大同盟の同盟軍がパリに入城したあとの4月にはアルトワ伯爵もパリに入城した[2]。また王国総代理官として同盟軍と軍事協約を締結した[4]。