シャルル1世・ダルブレ
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シャルル1世・ダルブレ
Charles Ier d'Albret
アルブレ領主
ドルー伯

在位1401年 - 1415年

出生1368年12月

死去1415年10月25日
フランス王国アジャンクール
埋葬 フランス王国、ヴィエイユ=エスダン、修道院教会
配偶者マリー・ド・シュリー
子女本文参照
家名アルブレ家
父親ドルー伯アルノー=アマニュー・ダルブレ
母親マルグリット・ド・ブルボン
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シャルル1世・ダルブレ(フランス語:Charles Ier d'Albret, 1368年12月 - 1415年10月25日)は、アルブレ領主、フランス軍司令官(英語版)(在任:1402年 - 1411年、1413年 - 1415年)。また、アジャンクールの戦いではフランス軍の司令官の1人であったが、この戦いでヘンリー5世率いるイングランド軍により殺害された。
生涯

シャルル1世はアルブレ領主アルノーマルグリット・ド・ブルボンの息子として生まれた[1][2]。若い頃にベルトラン・デュ・ゲクランの下で軍に加わり、ローゼベーケの戦いに参加した[2]。1403年にシャルル6世によりフランス軍司令官に任命されたが、宮廷でブルゴーニュ派が権力を握ると解任された[2]。1413年にアルマニャック派が権力を取り戻したとき、シャルル1世は軍司令官の地位に復帰した[2]。フランス宮廷で重要な役割をつとめ、クリスティーヌ・ド・ピザンの2つの『Autres Ballades』(第2番と第3番)の主題となっている[3]

アジャンクール遠征ではブシコー元帥ジャン2世・ル・マングルとともに名目上はフランス軍の指揮官であったが、2人の司令官は戦闘当日、フランスの上級貴族を効果的に統制することができなかった。シャルル1世は1415年10月25日、ヘンリー5世率いるイングランド軍との戦いでアジャンクールにおいて戦死した[2]。ヴィエイユ=エスダンの修道院教会に埋葬された[2]
結婚と子女

1400年1月27日に、ルイ・ド・シュリーとイザベル・ド・クラオンの娘[4]マリー・ド・シュリーと結婚し[5]、以下の子女をもうけた。

ジャンヌ(1403年 - 1433年) - 1422年にフォワ伯ジャン1世と結婚[6]

シャルル2世(1407年 - 1471年)[7] - アルブレ領主、アンヌ・ダルマニャックと結婚

ギヨーム - オルヴァル領主、1429年にニシンの戦いで戦死

ジャン

カトリーヌ - シャルル・ド・モンテギュ(1363年 - 1409年)と結婚[8]

脚注^ Wagner 2006, p. 5.
^ a b c d e f Bradbury 2004, p. 6.


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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