シャルル・ペギー
Charles Peguy
ジャン=ピエール・ローランス作《シャルル・ペギーの肖像》(1908年)
ペンネームピエール・ドロワール(Pierre Deloire)
ジャック・ドロワール(Jacques Deloire)
ピエール・ボードワン(Pierre Baudouin)
誕生シャルル・ピエール・ペギー(Charles Pierre Peguy)
(1873-01-07) 1873年1月7日
フランス共和国、ロワレ県オルレアン
死没 (1914-09-05) 1914年9月5日(41歳没)
フランス共和国、セーヌ=エ=マルヌ県ヴィルロワ
シャルル・ペギー(Charles Peguy、1873年1月7日 - 1914年9月5日)はフランスの詩人、劇作家、思想家。ジャン・ジョレス、レオン・ブルム、リュシアン・エールらとともに社会主義者として活躍し、ドレフュス事件で正義と真実を求める再審派として闘ったが、社会主義者の統一に向けた動きにおける教条主義や党派性、ドレフュス事件における政治的妥協を批判し、「真実を語る」ために『半月手帖』誌を創刊。ロマン・ロランらの作品発表の場となった。後にカトリックに回心し、詩的・思索的な作品『ジャンヌ・ダルクの愛の神秘』、『聖母マリアの綴織』、壮大な叙事詩『イヴ』などを発表。第一次世界大戦のマルヌ会戦において戦死した。 シャルル・ペギーは1873年1月7日、シャルル・ピエール・ペギー(Charles Pierre Peguy)として、パリの南西約120キロに位置するロワレ県オルレアンのフォーブール・ブルゴーニュ(Faubourg Bourgogne)の職人の家庭に生まれた[1][2]。「オルレアンの乙女」ジャンヌ・ダルクが1429年にのオルレアン包囲戦(百年戦争)における勝利によって解放した町であり、幼い頃からその歴史や物語を語り聞かせられていたペギーは、処女作の戯曲『ジャンヌ・ダルク』、代表作の『ジャンヌ・ダルクの愛の神秘』などにおいてジャンヌ像を描き続けた[3][4]。
生涯
背景
宗教教育(カテキズム)と非宗教教育(公教育)オルレアンの寄宿学校の制服を着たペギー(1885年、8歳)
ペギーは1873年4月13日に洗礼を受け[6]、カテキズムを中心とする宗教教育を受けたが、同時にまた、公教育の無償化・義務化・非宗教化を定めたジュール・フェリー法(フランス語版)成立後の非宗教的な教育も受けている[1][7]。1880年10月にオルレアン師範学校(小学校教員養成学校)の附属小学校に入学した。もはや教育の担い手は聖職者ではなく共和派であり、黒い制服を着た若い教員はペギーにとって共和国の理念を体現する存在となり、後に回想録『金銭』(1913年刊行)で彼らのことを「共和国の乳飲み子」、「黒い軽騎士」と表現している[1]。これ以後、「黒い軽騎士」を意味する「ユサール・ノワール(フランス語版)(Hussard noir)」は、ジュール・フェリー法および政教分離法(1905年)の成立後に師範学校を卒業した小学校教員を表わす言葉となった[8]。ペギーが学んだ附属小学校のあるオルレアン師範学校の教育実習生(ユサール・ノワール、1909年)
共和派の無神論者の車大工・鍛冶工の隣人ボワティエもまたペギーにとって共和主義、反教権主義、反ブルジョワ精神を教えた人物であり、ナポレオン3世を批判したヴィクトル・ユーゴーの『懲罰詩集』を貸し与えたのも彼であった[1]。ユーゴーは、古典主義の劇作家コルネイユと並んで、ペギーに最も大きな影響を与えた作家である[9]。
祖母エチエネット・ケレ(Etiennette Quere)は読み書きを学んでいなかったし、母セシル(Cecile)も「10歳半」までしか学校へ行っていなかったが[1][5]、ペギーは二人から勤労の精神を学び、学業にも熱心であったため、当時は労働者階級であれば職業訓練を受けるところ、学長にリセ進学を勧められ[5]、勤勉で優秀な学生として奨学金を受けてオルレアンのリセに進んだ[7]。 さらに1891年にバカロレア取得後、パリ高等師範学校への進学を目指して、パリ郊外ソー(オー=ド=セーヌ県)のリセ・ラカナル
高等師範学校 - 無神論、社会主義への傾倒
文学の学士号を取得した後、いったん休学してオルレアンに戻り、『ジャンヌ・ダルク』の執筆に取りかかった。「ドンレミ」、「戦闘」、「ルーアン」の三部から成るこの戯曲は、15年後に発表することになる詩的な『ジャンヌ・ダルクの愛の神秘』と異なり、史実に忠実な作品である[11]。
1896年にパリに戻って学業を再開するが、コレージュ・サント=バルブで出会った無二の友マルセル・ボードワン(Marcel Baudouin)が死去し、翌1897年に彼の妹のシャルロット・ボードワン(Charlotte Baudouin)と結婚した。ボードワン家は無神論(反カトリック)、共和派、社会主義の左派知識人の一家で[2][3][9]、ペギーもまた公立学校で受けた非宗教的・共和主義的教育に加えて、準備級および高等師範学校での哲学の講義や学友との付き合いを通じて無神論、社会主義に傾倒していた。したがって、二人の結婚は宗教婚(フランス語版)ではなく民事婚(フランス語版)であり、また、1903年までの間に生まれた三子(マルセル、ジェルメーヌ、ピエール)に洗礼を受けさせることもなかった(なお、ペギーが41歳で戦死した翌年に第四子シャルル=ピエールが生まれた)[6][9]。
社会主義オルレアンのリセの哲学講義におけるシャルル・ペギー(前列右端、1891年)
社会主義への傾倒はすでにリセ・ラカナルの学生の頃からであり、とりわけ、「フランス社会主義の父」と呼ばれたジャン・ジョレスの影響であった[5]。タルヌ県出身のジョレスは、1892年に同県のカルモーで起こった鉱山労働者の大規模なストライキ(Greves de Carmaux)で、これを支持したことが社会主義への移行の契機となり、翌1893年にカルモーの社会主義派の議員に選出されることになるが[12]、学生であったペギーもまたこのストライキを支持し、学内で募金を呼びかけた[5]。
高等師範学校図書館司書のリュシアン・エールを介して、レオン・ブルムら同校の卒業生・学生の社会主義者らとの交流が始まり[7]、1896年にオルレアンに戻ったときには、フランス労働党(POF)員とともに社会研究グループを結成。翌1897年からパリ・コミューンで戦った社会主義者ブノワ・マロン(フランス語版)が1885年に創刊した『社会主義評論(フランス語版)(La Revue socialiste)』に「社会主義の理想郷について」、「マルセル - 調和ある理想郷に関する最初の対話」などの小論をピエール・ドロワール(Pierre Deloire)、ジャック・ドロワール(Jacques Deloire)またはピエール・ボードワン(Pierre Baudouin)の筆名で発表[6][7](1897年から98年にかけて『社会主義評論』に掲載された小論は没後に『マルセル - 調和ある都市に関する最初の対話』の書名でガリマール社から刊行されている[13])、「ユートピア部屋(thurne Utopie)」と呼ばれた彼の部屋には社会主義者が集まり、議論の場となった[1][5][注釈 1]。
さらに社会主義に関する雑誌・新聞、著書などの出版・販売によって社会主義思想を普及させるために、1898年5月1日、パリ6区ソルボンヌ地区のキュジャス通り(フランス語版)17番地に書店を創設した。ペギーはまだ学生であったために友人ジョルジュ・ブレ(Georges Bellais)の名義で設立し、妻の生家ボードワン家の支援を得ていたが[15]、1年後に「新書店・出版社(Societe nouvelle de librairie et d'edition)」に改称し、株式会社として再出発した。このときに出資したのも高等師範学校出身の社会主義者、すなわち、リュシアン・エール、レオン・ブルムのほか、フーリエやプルードンらの社会主義者に関する著書を発表したユベール・ブルジャン(フランス語版)[16]、医学者のエチエンヌ・ビュルネ(フランス語版)[注釈 2]、中世フランス文学研究者のマリオ・ロック(フランス語版)、哲学者のデジレ・ルスタン(フランス語版)、社会学者・経済学者のフランソワ・シミアン(フランス語版)らであり、ペギーは「出版部代表」という役割であった[15]。