この項目では、フランスの軍人・政治家について説明しています。その他の用法については「シャルル・ド・ゴール (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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シャルル・ド・ゴール
Charles de Gaulle
1963年7月4日
フランス
第18代大統領
任期1959年1月8日 – 1969年4月28日
首相ミシェル・ドブレ
ジョルジュ・ポンピドゥー
モーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィル
フランス
第132代閣僚評議会議長
(第148代政府主席)
任期1958年6月1日 – 1959年1月8日
大統領ルネ・コティ
フランス
初代主席
(第124代政府主席)
任期1944年8月20日 – 1946年1月26日
出生 (1890-11-22) 1890年11月22日
フランス・ノール県リール
死去 (1970-11-09) 1970年11月9日(79歳没)
フランス・オート=マルヌ県
コロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーズ
シャルル・ド・ゴール
Charles de Gaulle
シャルル・ド・ゴール将軍(1942年)
渾名大元帥
大きなアスパラガス
所属組織フランス陸軍
軍歴1912年9月 ? 1944年6月
最終階級旅団将軍(General de brigade)
出身校サン・シール陸軍士官学校
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シャルル・アンドレ・ジョセフ・マリー・ド・ゴール(フランス語: Charles Andre Joseph Marie de Gaulle、1890年11月22日 - 1970年11月9日)は、フランスの政治家、陸軍軍人。同国第18代大統領(在任:1959年1月8日 - 1969年4月28日)。
1940年5月のナチス侵攻による本国失陥後、イギリス・ロンドンにてロレーヌ十字の自由フランスを樹立してレジスタンスと共闘し、臨時政府で最初の首相となり、1959年1月に第五共和政で最初の大統領に就任した。任期中はアルジェリアの独立の承認・フランスの核武装・NATOの軍事機構からの離脱などを実現した。フランスでは救国の英雄として絶大な尊崇を集め、20世紀フランス最高の政治家の一人と見做されている[1]。通称ド・ゴール将軍(le general de Gaulle)。フランスで単にル・ジェネラル(le General)と呼べばド・ゴールを指す。 1890年11月22日、ノール県リールにて、イエズス会学院の校長として歴史科を教えていた父アンリ・ド・ゴールと、母ジャンヌ・マヨーの間に生まれた。当時は露仏同盟の時代であった。 ジャンヌはノール県の名門実業家と姻戚関係にある(Les Maillot-Drouers, les Kolb-Bernard[注釈 1], les Gustave de Corbie)。ジャンヌから5親等辿ったところに、ソジェンからインドシナ銀行重役として派遣されたオクタヴ・オンベルグ・パパがいる[2][注釈 2]。その子であるオクタヴ・オンベルグ・ジュニアは世界恐慌の時にラザードとフランス植民地金融社を創業した。ロレーヌ地方の金融勢力はド・ゴールの政治生命に関わる存在でありつづけた。 父のアンリは医学博士・理学博士・文学博士の3つの博士号を持っていた。また、アンリは普仏戦争に騎兵中尉として参戦して負傷し、祖国の敗戦を経験している。幼少のド・ゴールを度々戦跡に連れて行くなどの軍人教育を行った。祖父のジュリアン
経歴
生い立ち
ド・ゴールはフットボールと文学が好きな少年であり、16歳の時には「悪しき出会い」と題された戯曲(1930年にドイツ軍がフランスを侵略するという、いわば仮想戦記)がコンクールで一等に入賞した。25フランの賞金は自書の出版に用いられた。 幼い頃より歴史に関心を持ち、コレージュ・スタニスラスを経て、1909年9月にサン・シール陸軍士官学校に入学した[3]。卒業後は1912年9月に歩兵第33連隊に陸軍少尉として配属されたが[4]、歩兵第33連隊はのちのヴィシー政権の指導者となるフィリップ・ペタンの連隊だった。第一次世界大戦では大尉としてドイツ軍と戦い、1916年にはヴェルダン戦で部隊を指揮した[注釈 3]。ド・ゴールは最も厳重な捕虜収容所だったインゴルシュタット城の牢獄「天女の宿」で生活しており、戦中5回脱獄を図ったものの全て失敗した[注釈 4]。1916年3月2日にヴェルダンのドゥオーモン要塞付近で捕虜となったド・ゴールはインゴルシュタット第9要塞捕虜収容所、ドイツ中部クローナハのローゼンベルク捕虜収容所、インゴルシュタットとニュルンベルクの中間にあるヴァイセンブルク近郊のヴュルツブルク捕虜収容所などを転々とし、この間に5回もド・ゴールは脱走しているが、その度に連れ戻されてようやく休戦を迎えた。
軍歴
第一次世界大戦まで