シャルル・ジョゼフ・ド・リーニュ
Charles-Joseph de Ligne
第7代リーニュ侯
在位1766年4月7日 - 1814年12月13日
出生 (1735-05-23) 1735年5月23日
ブリュッセル
死去1814年12月13日(1814-12-13)(79歳)
ウィーン
配偶者フランツィスカ・フォン・リヒテンシュタイン
父親クロード・ラモラール
シャルル・ジョゼフ・ラモラール・フランソワ・アレクシ・ド・リーニュ(フランス語: Charles-Joseph Lamoral Francois Alexis de Ligne)またはカール・ヨーゼフ・ラモラル・フォン・リーニュ(ドイツ語: Karl-Joseph Lamoral 7. Furst von Ligne[1] 1735年5月23日 - 1814年12月13日)は、第7代リーニュ公(侯)。単にド・リーニュ公(侯)(フランス語: Prince de Ligne)と表記されることも多い。ハプスブルク帝国・オーストリア帝国の元帥であるとともに、著名な著述家であった。ウィーン会議を「会議は踊る、されど進まず」と評した人物である。
生涯
軍人としての成功第7代リーニュ公シャルル・ジョゼフ
シャルル・ジョゼフは、オーストリア領ネーデルラントのブリュッセルで生まれた。父はリーニュ公クロード・ラモラール2世、母エリーザベトの父はルートヴィヒ・オットー・ツー・ザルムだった[2][3]。シャルル・ジョゼフは若いころから帝国軍に入り、七年戦争のヴロツワフの戦い、ロイテンの戦い、ホッホキルヒの戦い、マクセンの戦いで勇気を奮い頭角を現した。ロイテンの戦いでは若大尉として突然200人の指揮を任された上に大隊の大佐をはじめ上官が次々と戦死した際に、自ら部隊を率いて風車の陰に隠れてプロイセン軍の砲撃をかわし、ケーニヒスブルクへの撤退に成功した[4]。
戦争中の1757年に少佐、1758年に中佐、1759年に大佐と順調に昇進し、戦後の1764年4月23日に少将、1773年5月1日に中将に昇進した。1772年には金羊毛騎士団員となる栄誉を与えられている[5]。1771年には、ザクセン・ゴーダ・アルテンブルク公ヴィルヘルム・カール・クリスティアンの後継として第30歩兵連隊の連隊所有者となった[6]。
ヨーロッパ各地での活躍シャルル・ジョセフ・ド・リーニュ(1807年ごろ)
シャルル・ジョゼフは次第に皇帝ヨーゼフ2世の親友かつ相談役となり、また父の莫大な遺産と領地を相続したことで、華麗な宮廷生活を楽しむようになった。しかしバイエルン継承戦争が勃発すると、彼は軍隊に復帰することになった。
戦争は短期間でほとんど有名無実に終わった。するとシャルル・ジョゼフはイングランド、ドイツ、イタリア、スイス、フランスとヨーロッパ中を旅して、各国の宮廷、軍営地、サロン、哲学者や科学者の学会を訪問した。特にプロイセンを訪れた際には敵であるはずのフリードリヒ2世に心酔し、彼のシュレジエン併合を正当化するまでになった。