シャルルマーニュ
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カール大帝
カール1世 / シャルル1世
Karl der Grose
フランク国王
神聖ローマ皇帝
アルブレヒト・デューラー
「カール大帝」
在位フランク国王:768年 - 814年
神聖ローマ皇帝:800年 - 814年
戴冠式800年12月25日

出生742年4月2日
エルスタル
死去 (814-01-28) 814年1月28日(71歳没)
アーヘン
埋葬アーヘン大聖堂
配偶者ヒミルトルーデ
 デジデリア
 ヒルデガルド
 ファストラダ
 ルイトガルド
 ゲルスヴィンデ
子女カール
ピピン
ルートヴィヒ1世 他多数
王朝カロリング朝
父親ピピン3世
母親ベルトレド(異説あり)
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カール大帝(: Karl der Grose)、またはシャルルマーニュ(: Charlemagne)(742年?/747年?/748年? 4月2日 - 814年1月28日[1])はフランク国王(在位:768年 - 814年)。初代神聖ローマ皇帝(在位:800年 - 814年)として、ローマ教皇レオ3世より帝冠を受けた。

ドイツ及びフランスの始祖的英雄と見なされるため、神聖ローマ皇帝としてカール1世(独)・フランス国王としてシャルル1世(仏)と称される。ドイツ語読みとフランス語読みを共に避けて英語読みのチャールズ大帝(英: Charles the Great)という表記が用いられることもある[注 1]

カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子。768年に弟のカールマンとの共同統治としてカール大帝の治世は始まり、カールマンが771年に早世したのちカールは43年間、70歳すぎで死去するまで単独の国王として長く君臨した。カールは全方向に出兵して領土を広げ、フランク王国の最盛期を現出させた。800年にはローマ教皇レオ3世によって東ローマ皇帝コンスタンティノス6世の後継者として帝冠を授けられた。帝都コンスタンティノープル東ローマ帝国)はカールの皇帝位を承認しない代わりにフランク人の皇帝だとは認め、ギリシャと正教の西方への権威を事実上放棄した。こうして古典ローマカトリックゲルマン文化の融合を体現したカール大帝は、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、「ヨーロッパの父」とも呼ばれる[2]。カール大帝の死後843年ヴェルダン条約でフランク王国は分裂し、のちに神聖ローマ帝国フランス王国ベネルクスアルプスからイタリアの国々が誕生した。1165年神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の尽力によりカール大帝は列聖された[3]
生涯・事績
出生について

カールはピピン3世の長男として生まれたが、その出生について詳しいことは分かっていない。カールに仕えて「カール大帝伝」を記したアインハルトは、「カールの出生については公表されておらず、もはやそれを知るものも残っておらず、それを書き記すことは不適切だ」としてカールの出生について沈黙している[4]。カールの生年は一般には742年であると考えられているが、父ピピン3世と正妻ベルトレドの結婚は744年以降と考えられており、カールが姻前子であったかベルトレド以外の女性から産まれた子であった可能性が考えられる[5][6]佐藤彰一は、アインハルトがカールの出生について書き記さなかったのは、このことに議論が及ぶ事態を恐れたからではないかと推測している[7]。一方、K.F.ヴェルナー(ドイツ語版、フランス語版)やベッヒャー(ドイツ語版)は「ペトーの年代記」に記された747年または748年をカールの正しい生年としている[6]。この場合、ピピン3世とベルトレドの結婚年に744年説を採用すれば、前述の矛盾は解決されることとなる。もっとも、「フランク王国年代記」と「サン・ベルタン年代記」はピピン3世とベルトレドの結婚を748年または749年としており[7]、この記述を採用する場合、やはりカールには私生子の疑惑がつきまとうこととなる。ベルトレドの子とされる弟カールマンとの不仲に、彼の出生の疑惑がかかわっていたかどうかは判然としない[8]。出生地についても、アーヘンで生まれたとする説[9]や、エルスタルで生まれたとする説[10]があり定まってはいない。今日、「ラン(Laon)伯Heribertの娘」と記されるベルトラダ(ベルタ)は[11]、「ブリタニアの王女」(Tochter des Konigs von Britannien)であり、しかも一旦は、求婚の使者となったピピンの執事によってその娘に王妃の座をだまし取られたものの、最後には王妃となる伝説がある [12]
即位まで

ピピン3世の子のうち、カール、カールマン、ギゼラの3人が成人し、男子であるカールとカールマンが後継者とされた。すでに751年にはピピン3世は主君だったメロヴィング朝キルデリク3世から王位を簒奪してフランク国王に即位しており[13]、また754年にローマ教皇ステファヌス2世サン=ドニ大聖堂まで赴いて塗油した際、ピピンは後継者であるカールとカールマンへの塗油も望み、これが実行されていた[8]768年にピピンが死去すると、フランクの相続法に従い王国は二分され、カールはアウストラシアネウストリアを、カールマンはブルグントプロヴァンスラングドックを手に入れたが、両者の間は不仲であったとされる[8]771年にカールマンが死去するとカールマンの妻であるゲルベルガは幼子とともにランゴバルド王国へと亡命し、カールはフランク全域の王となった[14]
外征と西ヨーロッパ世界の政治的統一16世紀発行の『ローランの歌』におけるカールの肖像

カールの生涯の大半は征服行で占められていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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