シャルリー・エブド
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Charlie Hebdo
種別週刊風刺新聞
編集長リス (ローラン・スーリソー)
設立1970年 創刊 (1982年 活動停止、1992年 再開)
政治的傾向左派
言語フランス語
本社所在地パリ
発行数200,000部 (2020年末)
ISSN1240-0068
ウェブサイト ⇒www.charliehebdo.fr
フランス

『シャルリー・エブド』 (Charlie Hebdo) は、フランスの週刊新聞。短く『シャルリ・エブド』とも表記される[1]

左派寄りの風刺新聞であり、政治・社会批判の風刺画を多数掲載している。極右(政治的原理主義)およびあらゆる宗教の原理主義を批判するほか、政治経済、エコロジーフェミニズム、文化、科学等の分野に関するコラムを掲載。(広告を一切掲載しない)独立系の報道機関として、表現の自由ライシテについては創刊時から徹底した姿勢を貫いている。

『シャルリー・エブド』の「エブド」はフランス語の「週刊」を意味する「エブドマデール(hebdomadaire)」の短縮形。「シャルリー」とは当初、漫画『ピーナッツ』の登場人物チャーリー・ブラウンにちなんだものであった。

1970年にジョルジュ・ベルニエ(フランス語版)とフランソワ・カヴァナが発禁になった『アラキリ』に代わるものとして創刊。1970年代のフランス社会の変革期にあって、表現の自由を訴えると同時に、消費社会に反対し、エコロジーフェミニズム、反軍国主義、カウンターカルチャーを支持する非常に重要な存在であった。

1982年に活動停止。1992年に編集長フィリップ・ヴァル(フランス語版)を中心とした新たなメンバーにより再開。

2006年、デンマークの日刊紙『ユランズ・ポステン』に掲載されたムハンマドの風刺画を転載したことで、特にイスラム諸国から激しい非難を受けた。2011年11月にシャルリー・エブドの事務所に火炎瓶が投げ込まれ全焼する事件が起きた。2015年1月、自動小銃を持った男らが事務所に乱入。所謂「シャルリー・エブド襲撃事件」が起こり、風刺画家、コラムニストなど計12人が死亡。国際テロ組織アラビア半島のアルカイダが「ムハンマドを侮辱したことへの復讐だ」として犯行声明を出した[2]。1週間後の14日には「生存者の号(numero des survivants:『シャルリー・エブド第1178号(フランス語版)』)を発行。当日早朝に完売し、増刷。計800万部を発行し、定期購読者も前月の1万人から22万人に急増した。

パリ市から名誉市民の称号が贈られたほか、国際ペンクラブの「勇気と表現の自由」賞、ニュージアム(NEWSEUM, ワシントンD.C.)の「表現の自由賞( ⇒Free Expression Awards)」などを受賞したが、国際ペンクラブの賞については英米の作家が異議を唱え、授賞式をボイコットするなど、論争を巻き起こすことになった[3]
政治的立場と主なテーマ

アラキリ』の挑発的・辛辣な批判精神と反権威主義の伝統を受け継ぐ『シャルリー・エブド』は、政治的にはかなり特殊な左派である。フランス与党野党を問わず、主に右派の思想と政治家を標的とする一方、左派を批判することも少なくない。テーマによっては内部で意見が分かれることもある。

主なテーマはフランスの政治、社会、経済宗教などの時事問題だが、国際問題についても独自の観点から切り込んでいる。

政界全体を批判の対象とするものの、特に極右政党「国民戦線」とは真っ向から対立し、辛辣な批判を繰り返している。1996年にはこの政党の禁止を求める請願書を掲載し、173,704人の署名を得て内務省に提出した[4]。1998年には、産業財産庁 (INPI) に対して「国民戦線」という商標の登録を申請した。これは国民戦線が結成された1972年から10年以上にわたって商標権の更新を怠っていると判断したからである。更新を怠って商標権が消滅した場合は、誰でも同じ商標を登録することができる。したがって、『シャルリー・エブド』は問題なくこの商標権を取得することになるが、これはもちろん悪ふざけでやったことであり、『シャルリー・エブド』の目的は、第二次世界大戦中のフランス共産党主導のレジスタンス運動「国民戦線(FN)(フランス語版)」の名前が使われていたことから、これを回復するためであった[5]。こうした経緯から、シャルリー・エブド襲撃事件後の大行進「共和国の行進(marche republicaine)」について、国民戦線初代党首のジャン=マリー・ル・ペンは「シャルリー・エブドは国民戦線の敵だった」とし、「デモに参加した政治家はシャルリーではなく、南半球からの移民の流入からフランスを守ることができないシャルロ(道化)だ」と攻撃した[6](「シャルロ」はチャールズ・チャップリンの愛称)。なお、現党首のマリーヌ・ル・ペンは「共和国の行進」の主催者から招待を受けなかった。

反宗教無神論反教権主義も『シャルリー・エブド』の特徴とされる。特にキリスト教原理主義団体「反人種差別およびフランス人・キリスト教徒アイデンティティ尊重のための総同盟」から十数回も訴えられており[7]ローマ法王を侮辱した風刺画が多数掲載された特集号に関する訴訟では敗訴している[8]。なお、襲撃事件とそれまでの経緯から、シャルリーはイスラモフォビアであるかのような扱いを受けることがあるが、『ル・モンド』紙が2005年から2015年までの同紙の表紙画523枚についてその内容を調べたところ、宗教に関するものは全体の7%、そのうちイスラム教に関するものは全体のわずか1.3%であった[9]。創刊時以来一貫して攻撃の的とされたのは極右思想及び極右政治・宗教団体そして原理主義であり、さらに経済的自由主義の諸問題についても特にベルナール・マリスのコラムにおいてしばしば取り上げられていた。
歴史フランソワ・カヴァナ:『アラキリ』および『シャルリー・エブド』創刊者・編集長

(「歴史」の一部はフランス語版に基づくものである。内容の正確さについては、すべて引用を参照し、確認した。)

シャルリー・エブドのルーツは主として『アラキリ』にあり、月刊誌『ゼロ (Zero)』および改名後の『アンザイレン (Cordees)』の後、「ショロン教授」ことジョルジュ・ベルニエ(フランス語版)とフランソワ・カヴァナ1960年に皮肉と自嘲をこめて「ばかで意地悪な新聞」と銘打った月刊『アラキリ』を発刊した(Hara-Kiri は文字通りの「腹切り」のこと)。「ショロン」とは当時『アラキリ』の事務所があったパリ9区の「ショロン通り (Rue Choron)」に因む名前であり、創刊時にはショロンが発行責任者、フランソワ・カヴァナが編集長であった。当時のメンバーはフランシス・ブランシュ(フランス語版)、トポール(フランス語版)、フレッド (Fred : Frederic Othon Theodore Aristides)、ジャン=マルク・レゼール、ジェベ (Gebe : Georges Blondeaux)、そして襲撃事件で亡くなったジョルジュ・ウォランスキカビュらであった。早くも翌61年には発禁になり、再開されたものの66年には再び発禁。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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