シャルマネセル3世
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アッシリアの王
全土の王
シャルマネセル3世(Shalmaneser III、在位:前859年-前824年)は、古代メソポタミア地方の新アッシリア帝国の王。ウラルトゥ、パレスティナ、バビロニアなど多方面への遠征を繰り返した。旧約聖書に登場する北イスラエル王イエフを記録した黒色オベリスクは貴重な史料となっている。帝国前半の興隆期を担ったが、彼の死後は王の権力が低下し、帝国は停滞期に入った。
本来の名前はシャルマヌ・アシャレド(?ulm?nu-a?ar?du)であり、「シャルマヌ(英語版)神は至高なり」を意味する。アッシュル・ナツィルパル2世の息子にして後継者であった[1]。アラブ人とカルデア人が初めて記録された歴史に登場するのはシャルマネセル3世の年代記の前850年代からである。
治世カルカルの戦いを回想(morates[訳語疑問点])するクルクの石碑(英語版)。マルドゥク・ザキル・シュミ1世(英語版)(左)と挨拶するシャルマネセル3世(右)。シャルマネセル3世の玉座の基壇(Throne Dais)の前面パネル。
彼の長期にわたる治世は東方諸部族、バビロニア、メソポタミアおよびシリア、そしてキズワトナとウラルトゥへの不断の遠征の連続であった。彼の軍隊はヴァン湖とタウルス山脈に侵入し、カルケミシュの新ヒッタイト(英語版)に貢納を強制し、ハマトとアラム・ダマスクス(英語版)を平定した。 シャルマネセル3世はウラルトゥ王国への遠征を開始し、前858年にスグニア
遠征
前851年、バビロンにおける反乱を受けてシャルマネセル3世はマルドゥク・ベール・ウシャテ(Marduk-b?l-u?ate)に対する遠征を開始した。彼はシャルマネセル3世の同盟者マルドゥク・ザキル・シュミ1世(英語版)の弟である[3]。遠征の2年目、マルドゥク・ベール・ウシャテは退陣を余儀なくされ、殺害された。これらの出来事は黒色オベリスクに記録されている。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}我が治世の第8年、カルドニアシュ(英語版)の王マルドゥク・ザキル・シュミの弟、マルドゥク・ベール・ウシャテが彼に反乱を起こし、全土を分割した。彼の復讐のため、余は出陣しメ・トゥルナト(フランス語版)(Me-Turnat)を占領した。我が治世の第9年、余は再びアッカドへと進軍した。余はGanannateを包囲した。マルドゥク・ベール・ウシャテについては、アッシュル神とマルドゥク神の恐るべき栄光が彼を圧倒し、彼は自らの命を守るため山地へと登っていった。余は彼を追撃した。余はマルドゥク・ベール・ウシャテならびに彼と共にいた反乱軍の将校たちを剣で切り倒した。—シャルマネセル3世、黒色オベリスク[4]
対イスラエルシャルマネセル3世に跪くイエフ[5]。これは「古代オリエント美術における現存する唯一のイスラエルまたはユダヤ人の君主の肖像である[6]
前841年、シャルマネセル3世はハダドエゼルの後継者ハザエル(英語版)に対して遠征を行い、彼を首都の城壁内に後退させた[7]。シャルマネセル3世はダマスカス市を占領することができなかったがその領土を荒らし、イスラエルのイエフ(その外交官たちは黒色オベリスクに登場している。このオベリスクは現在、大英博物館に収蔵されている。)はフェニキア人の諸都市と共に、おそらく前841年にシャルマネセル3世に貢納を送った[8]。