シャルケ04
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シャルケ04

原語表記Fusballclub Gelsenkirchen-Schalke 04 e. V.[1]
愛称Konigsblau(王者の青)
Die Knappen(炭鉱夫たち)
クラブカラー   
   
創設年1904年
所属リーグ2. ブンデスリーガ
所属ディビジョン2部(2023-24)
昨季リーグ順位17位(2022-23
ホームタウン ゲルゼンキルヒェン
ホームスタジアム
フェルティンス・アレーナ
収容人数62,271
代表取締役 アクセル・ヘファー[2]
監督 Karel Geraerts
公式サイト ⇒公式サイト

ホームカラーアウェイカラーサードカラー

テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

シャルケ04(FC Schalke 04, ドイツ語: [??f t?se? ??alk? n?l fi???]、.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}Fusballclub Gelsenkirchen-Schalke 04 e. V.(フースバルクルプ?ゲルゼンキルヒェン=シャルケ?ヌルフィア?エー?ファウ))は、ドイツノルトライン=ヴェストファーレン州ゲルゼンキルヒェンを本拠地とする総合スポーツクラブ。その他、陸上競技ハンドボール卓球などクラブチームおよび専属選手の保有や運営、育成にも携わる。かつてはバスケットボールチーム(ドイツ語版)も活動していたが、2020年にチームは活動を終了している。

ブンデスリーガの前身であるドイツ・サッカー選手権を7度制しており、国内カップ戦であるDFBポカールで5度の優勝、1997年にはUEFAカップで優勝を果たしている[3]

世界最大の会計事務所である『デロイト』が公表した2022年度版のデロイト・フットボール・マネー・リーグによると、2019-20シーズンのクラブ収入は2億2280万ユーロであり、世界16位、ドイツでは3位である[4]
歴史
創立期

1904年、2つの地域名を合わせた「ウェストファリア・シャルケ」というクラブ名で創設される[5]。創設に関わったのは若い炭鉱労働者で、当時のクラブカラーは赤と黄色だった[5]。1924年に「FCシャルケ04」と改称し、クラブカラーも現在まで続く青と白に変更された[5]。1920年代のサッカー界ではキック・アンド・ラッシュ戦術が流行していたが、イングランド育ちのハンス、フレッドのバルマン兄弟がスコットランド・スタイルをチームに持ち込み、「シャルケのコマ回し」と評されたパス・サッカーを展開した[5][6]

1930年には、当時法律でプロとしての活動が禁止されていたにも関わらず、選手に勝利給を支払っていたことが公になり、責任者のヴィリー・ニーアーがライン川に身を投げ命を絶った[7][8]。協会はチーム登録の抹消や罰金処分など厳しい処分を課したが、サポーターの怒りを恐れた協会はすぐさま処分を撤回した[7]。ニーアーの葬儀でサポーターは団結を訴え、直後の公式戦では3万4000人収容のスタジアムに7万人を超える観客が詰め掛けた[7]
黄金時代

1930年代から40年代にかけてドイツ・サッカー選手権で6度優勝し黄金時代を迎えた[7]。エルンスト・クッツォーラとフリッツ・シュツェパンの活躍によりシャルケは国内最強の地位にあったが、第二次世界大戦後のエネルギー転換によりゲルゼンキルヒェンの石炭鉱業は衰退しクラブにも影響することとなった[5][7][9]
ブンデスリーガ発足

1958年の優勝からクラブの勢いは下降気味だったが、1963年のブンデスリーガ発足メンバーに名を連ねた[7]。1971年に一大スキャンダルとなったブンデスリーガの八百長事件では、処分された52人のうち13人がシャルケの選手だった[10]。中心選手だったスタン・リブダ、ロルフ・リュスマン、クラウス・フィッシャーらは賄賂を受け取り敗退行為に手を染め永久追放処分となった[7]。その後期間は軽減されたものの、タイトル争いをする程だったチームは有力選手を出場停止により失いチーム力を落とし、「FC八百長」と揶揄までされた[7][11]。その後フロントの迷走により財政的にも問題を抱え、クラブは2部降格の苦境に陥った[7]
初のUEFAカップ制覇とDFBポカール連覇

1993年にルディー・アッサウアーがGMに就任しクラブ改革を実行していくと、4年後には欧州タイトルであるUEFAカップを制した[7]。アッサウアーは欧州の2部的地位にあるリーグに目を向け、補強資金の枠に縛られないチーム強化を目指し、ベテランを重用しチームの継続性を維持した[11]。1998-99、1999-2000シーズンは主力選手の怪我が相次ぎ下位に低迷し、クラブ首脳陣からステフェンス監督の解任を求められたが、アッサウアーは耳を傾けずUEFAカップでタイトルをもたらした監督を信じた[11]

2000-01シーズンはリーグ発足後初の大混戦で、前半戦の王者になったシャルケは首位バイエルン・ミュンヘンと競り、最終節で優勝可能性を残した2位につけていた[9]。迎えた最終節はSpVggウンターハヒンクに2点を先行される苦しい展開ながら、前半終了間際に同点に追いつくと後半に巻き返し5-3で勝利した[12][13]。優勝にはバイエルンの敗戦が必須条件だったが、試合終了後のスタジアムの電光掲示板に表示された「ハンブルク 1-0 バイエルン」という表記に優勝を確信したサポーターは喜びを爆発させた[13]。しかしこれは時間差の情報で、土壇場でバイエルンが同点ゴールを決めてあと一歩のところで優勝を逃すこととなった[13]
フェルティンス・アレーナ完成以降

2001年に新たなスタジアム、フェルティンス・アレーナが完成した[14]。2004-05シーズンはバイエルンとの首位攻防戦を制し25節で首位に浮上するものの、その後の9試合で5敗と大失速でタイトル獲得はならなかった[15]。続く2005-06シーズンはラルフ・ラングニック監督が首脳陣との確執で途中交代され、引き分け試合が重なり優勝争いに絡むことはできなかったものの、後任のミルコ・スロムカ監督は2006-07、2007-08シーズンで結果を残した[15]。特に2006-07シーズンは残り2試合で首位に立ち優勝に期待が寄せられたが、ペーター・レーヴェンクランズの負傷とリンコンの出場停止により勢いが続かず、またしても目前で優勝を逃すことになった[15]

2009-10シーズンにフェリックス・マガトが就任すると、軍隊と形容されるトレーニングでベテラン選手が活性化し、前シーズンの8位から大幅に順位を上げ2位と結果を残した[15]。2010-11シーズンに11名の新戦力が加わり最適解を見つけるのに手間取り、マガトが3月に解任されリーグは14位に沈んだものの、チャンピオンズリーグでは躍進しクラブで初となるベスト4進出を果たした[15]。その後の3シーズンで3年連続でチャンピオンズリーグ出場権獲得と安定した成績を残すものの、監督の途中交代が続き継続性を欠いたチームは優勝争いに加わることはなかった[15]

2014-15シーズンは1.FSVマインツ05からチュポ・モティングを獲得し、冬の移籍市場ではマンチェスター・シティからマティヤ・ナスタシッチを獲得した。チャンピオンズリーグではベスト16で再びレアル・マドリードと対戦し、アウェーのセカンドレグは勝利したものの2戦合計4-5で敗れた。この頃からマックス・マイヤーレオン・ゴレツカレロイ・サネといった若手のドイツ人プレーヤーがチームを引っ張るようになった。

2015-16シーズンの夏の移籍市場では、ボアテングの契約を解除し、ユリアン・ドラクスラーVfLヴォルフスブルクに放出した一方、フランコ・ディ・サントヨハネス・ガイスピエール・エミール・ホイビュルクなどを獲得。冬の移籍市場ではユネス・ベルアンダを獲得した。ヨーロッパリーグではベスト32でFCシャフタール・ドネツクに2戦合計0-3で敗れた。

2016-17シーズンは監督にマルクス・ヴァインツィールが就任。夏の移籍市場で主力であったサネをマンチェスター・シティに放出したが、ブリール・エンボロ (バーゼル)、イェウヘン・コノプリャーンカコケ (セビージャ)、ナウド (ヴォルフスブルク)などを獲得。冬の移籍市場ではギド・ブルクシュタラー (ニュルンベルク)を獲得した。リーグ序盤で5連敗に始まり最下位に沈むなど最悪のスタートを記録した。3バック起用などで一時はV時回復を見せるも、ブンデスリーガは10位に終わり、ヨーロッパリーグを逃した。ヨーロッパリーグはベスト8でアヤックスに敗れて敗退した。

2017-18シーズン、32歳のドメニコ・テデスコを監督に就任させた。夏の新戦力として、フランクフルトからバスティアン・オツィプカを、FCナントからアミーヌ・アリを獲得した。また、テデスコはマックス・マイヤーを司令塔ポジションにコンバートさせ、見事成功させた。リーグ戦においてはシーズン通算18勝9分け7敗という結果を残し、中でも、11月に行われた第13節ドルトムント戦では、4点差のビハインドを跳ね返し、奇跡のドロー決着にさせた。これらの出来事により、クラブは、リーグ順位2位で4シーズンぶりのチャンピオンズリーグ出場権を手にした。

2019-20シーズンは監督にデイヴィッド・ワグナーが就任。2019年12月時点で3位に立ち、前半戦を8勝3敗6分けの5位で終えるなど、上々の滑り出しを見せていたが、多くの負傷者の存在や対戦相手からの分析が進んだ後半戦以降は、2020年1月17日のボルシアMGを2-0で下したのを最後に勝ち星から遠ざかり、6月7日の1.FCウニオン・ベルリン戦を1-1のドローで終え、1993-94シーズン以来となる27年ぶりのリーグ戦連続未勝利数がクラブ史上ワーストとなる12試合にまで伸び、未勝利記録を樹立した。その後も最終節のSCフライブルク戦も0-4と大敗し、順位こそ前半戦での大きな貯金もあり、前シーズンから2つ上がった12位で終えたが、後半戦だけの成績に限れば1勝10敗6分け(7得点37失点)の成績だった。


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