シャブタイ派
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出典検索?: "シャブタイ派" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2012年2月)

シャブタイ派(ヘブライ語:??????)、あるいはサバタイ派(英語:Sabbatian)とは、救世主を自称したシャブタイ・ツヴィ(サバタイ・ツヴィ)(1626年7月1日?1676年9月17日)を中心に17世紀の半ばに誕生した、メシアニズム(救世主待望論)を信奉するユダヤ教の党派の名称である。その教義の根底には急進的なカバラ思想が据えられていたため、ユダヤ教の正統派からは異端とみなされていた。ただし現在のユダヤ教がシャブタイ派の影響を少なからず受けていることは事実である。
シャブタイ派勃興にいたるまでの時代背景1666年アムステルダムで印刷されたシャブタイ派のパンフレット。「????」(ティクン)と題されている。

預言者が活躍していた古代ユダ王国の時代より、ユダヤ人は、民族を苦難の淵から救い出してくれる英雄的人物の到来を待ち望んでいた。その人物こそ「メシア」(マシァハ)と呼ばれる者で、メシアには、神の敵対者と戦い、偶像崇拝を根絶し、エルサレムに神殿を築き、神権体制のもと全世界を本来あるべき姿に修復させることが期待されていた。

1648年から1649年にかけて、ウクライナを中心とした東欧の各地でフメリニツキーの乱ウクライナ・コサックによるユダヤ人虐殺事件)が起き、累計10万人(推定)ものユダヤ人が虐殺された。当時の東欧のユダヤ人社会では、『ゾハル』の記述を根拠に、ユダヤ暦5408年(1647年?1648年)が救済の年になるとカバリストによって計算されており、多くの民衆もそれを信じていた。しかし、ユダヤ教には「ヘヴレー・マシァハ」(救世主が現れる前に起きる苦難)という思想があった。すなわち、救済にいたるまでにユダヤ民族の大量虐殺が起こり、尊敬すべき多くのラビが命を失い、残された民は狼狽しながら絶望の淵で救済を渇望することになると信じられていたのである。そこに起きたフメリニツキーの乱は、ユダヤ人社会に凄まじい衝撃を与えることになった。

多くのラビはカバラに没頭し、救世主が現れる具体的な期日の特定を急いだ。一般民衆の間では伝統的に大衆性のない神秘主義を学ぶことは過小評価されていたのだが、これを機にカバラの学習熱が大いに高まることになった。とくに関心が集まったのは、ラビ・イツハク・ルリア1534年?1572年)が提示したカバラ体系であった。また、ルリアの思想における救済の概念にも目が向けられた。ルリアのカバラでは、救済の日はこの世の終末に訪れるとされているのだが、天上界におけるティクン(本来あるべき姿に修復すること)はすでに行われていると説かれていた。

この現象は東欧だけでなく、北アフリカ中近東といった各地のユダヤ人社会にも飛び火した。終わりなき迫害に疲弊した民衆の間では救世主待望の機運が急速に高まっていた。このような時代背景を背負ってシャブタイ派は誕生している。そして世界中のユダヤ人を巻き込みながら、近代ユダヤ民族史上有数の危機的な時代を渡り歩くことになる。
シャブタイ派の歴史

シャブタイ派は、その中心人物たるふたりのカバリストの出会いをきっかけに誕生している。そのふたりとは、奇人として知られていたシャブタイ・ツヴィ(サバタイ・ツヴィ)(1626年?1676年)と「ガザのナタン」ことアブラハム・ナタン(1643年?1680年)である。
黎明期から全盛期まで1665年に描かれたシャブタイ・ツヴィの肖像。

1626年7月1日(ユダヤ暦5386年アーブの月の9日)、シャブタイ・ツヴィはイズミールにて生を受けた。彼こそが、後にシャブタイ派の信奉者から救世主、さらには肉体を備えた神そのものとさえみなされることになる人物である。ツヴィは少年期(あるいは青年期)に耐え難い性的虐待を体験しており、そのさいに男性器にひどい火傷を負ったとされている。この出来事は彼の人格形成に多大な影響を及ぼしており、生涯彼を悩ませ続けた重度の躁うつ病は、このときの心的外傷が原因とみられている。ツヴィは少年時代よりエン・ソフ(カバラにおける神の概念)やセフィロト(カバラでは全宇宙の縮図、あるいは「善の領域」とされている)といったカバラの概念に馴染み、やがてはいくつものカバラ理論に精通するようになった。もちろんその中にはルリアのカバラも含まれていたのだが、ツヴィの嗜好とは根本的に相性が合わなかったようである。

ツヴィが救世主を自称するようになったのは1648年のことである。しかし、彼の言葉をまじめに信じる者など当時は誰もおらず、ほとんどの人間から狂人扱いされていた。また、トーラーの朗誦の際には、ハラハーにて発音が禁じられているがために「アドナイ」と代読されている神の名前「????」(神聖四文字)を平然と口にするなど、伝統的な戒律をたびたび無視してはそのたびに批判を浴びていた。やがては度重なる醜聞に耐えていたイズミールのラビや有力者からも見限られるようになり、ついにはイズミールから追放されてしまった。

それから12年の間、ツヴィは各地を放浪することになった。その間にも戒律違反を伴った奇行は日に日に悪質化しており、伝えられるところでは、モーセ五書を妻に見立てての結婚式典を開催したり、安息日や祝祭日の期日を変更したり、ハラハーで禁じられた乳で煮込んだ肉料理を食べるなど、限度をわきまえなかった。また、ハラハーに対する違反を犯すたびにベレホト・ハ=シャホル(早朝の祝福)を真似て「戒律の解禁に祝福あれ」と叫んでいた。その真意は、救世主が到来する日にはハラハーによる禁止事項が解禁されるというミドラシュの記述を実践することにあった。

ツヴィはいったんイズミールに戻ったものの、家族からの経済的援助を条件に厄介払いされるかようにエルサレムに送り出された。ツヴィはロドス島エジプトを経由してエルサレムに入城し、ユダヤ人社会で一定の評価を得ることになる。その後、エルサレムの共同体に献納する資金を収集するために滞在していたエジプトで、サラという名前の情緒不安定な女性を妻に娶ることになる(ツヴィにとっては三回目の結婚である)。彼女は故郷のリヴォルノにて救世主の妻になるという預言を受けたそうで、その噂はエジプトまで届いていた。彼女に関しては淫行をはじめとした数々の醜聞もささやかれていたのだが、『ホセア書』1章2節の「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」(新共同訳)という預言を成就するため、ツヴィ自らが彼女をエジプトへ招待したことになっている。ツヴィは本来の目的が終わると、シナイ半島からガザを経由してエルサレムへ向かった。その途中で、預言者を自称する「ガザのナタン」こと、アブラハム・ナタン・ベン・エリシャ・ハイム・ハ=レヴィ・アシュケナジーと出会ったのである。1665年のことであった。

エルサレムで生まれ育ったナタンは、少年時代より周囲からエロイ(天才)とみなされていたほどの人物である。ツヴィと出会った当時は優秀なカバリストとしての地位をすでに固めており、まだ21歳の青年であったにもかかわらず、民衆の心の病を癒すなど、預言者めいた力があることで知られていた。ツヴィもその噂を聞いてガザに駆けつけたようである。ナタンはツヴィとの最初の出会いにおいて、同じ年のプリム祭のころに見た幻について語っている。彼はその幻の中で、シャブタイ・ツヴィこそがイスラエルの救世主であるという預言を受けていたのである。ナタンはさらに、カバラの理論に基づいた自らの思想の核心についてツヴィに説明した。こうしてふたりは互いに影響されながら、シャブタイ・ツヴィの個人的資質によって救済が訪れるという信仰の基礎を完成させ、民衆に教えはじめたのである。なお、ナタンはツヴィに命じられ、以降はナタン・ベニヤミンを名乗るようになった。罪の購いのために苦行に耐えるシャブタイ派の信奉者を描いた版画。

ふたりを中心にした布教活動はガザやヘブロンでは大きな成功をおさめ、シャブタイ派の思想は多くのユダヤ人に受け入れられた。しかし、エルサレムに戻ったツヴィを待ち受けていたのは、ラビ・ヤアコブ・ハギズ(1620年?1674年)を筆頭にしたユダヤ人社会からの辛らつな批判であった。町の道化師からは「シャリァハ(使者)を送ったのに帰ってきたのはマシァハ(救世主)だった」と馬鹿にされたりもした。エルサレムのラビは、その影響力や求心力からして特別な存在だったため、ナタンとしては是が非にも彼らからの理解を得たいところであった。彼は12人の弟子を集めて「イスラエルの12支族」と呼び、彼らをエルサレムに捧げる神聖な生贄と定めた。また、ガザのラビで弟子の筆頭格でもあったラビ・ヤアコブ・ナジャラを大祭司に任命して生贄の儀式を執行しようとした。しかしエルサレムのラビは、イスラム教徒からの非難を招く恐れがあるとして反対した。ナタンはそれに同意すると、すでに準備の整っていた計画をすべて白紙撤回した。


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