シャブタイ・ツヴィ
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1665年に描かれたシャブタイ・ツヴィの肖像。

シャブタイ・ツヴィ(ヘブライ語:???? ???)、サバタイ・ツェヴィ(英語:Sabbatai Zevi)、またはゲルショム・ショーレムの著作翻訳本において、日本における通常の表記名はサバタイ・ツヴィ(1626年7月1日 - 1676年9月17日)は、近代ユダヤ民族史にもっとも影響を及ぼした偽メシアとして知られるユダヤ人である。彼を救世主と信じた集団は「シャブタイ派」(??????)、サバタイ派(英語:Sabbatian)と呼ばれ、急進的なメシアニズム(救世主待望論)を掲げて17世紀半ばのユダヤ人社会を熱狂の渦に巻き込んだ。衰退後の18世紀においてもツヴィの信奉者は継続的に一定の勢力を保ち、後に誕生したハシディズムに影響を与えた。
概略

トルコのスミルナ(現在イズミール)で生まれ育ったシャブタイ・ツヴィは幼くしてカバラに目覚め、青年時代にはいくつもの神秘主義を習得していた。このころよりすでに奇行癖があったようで、それは生涯変わらぬ彼の性癖として知られているのだが、その性癖によって預言者を自称していたアブラハム・ナタン(ガザのナタン)から救世主と見なされるようになった。ツヴィは各地のユダヤ人社会を巡り歩いて大勢の信奉者を味方につけると、伝統的な戒律や道徳を否定したり自分の兄弟や友人たちを各国の王に任命するなど、破天荒な行動で耳目を集め、欧州のユダヤ人世界に一大ムーヴメントを起こした。

1666年、カバリストのネヘミヤ・コーヘンに告発されたツヴィは、オスマン帝国において逮捕されて裁判にかけられた。彼にはイスラム教への改宗か死刑かという二者択一が迫られたのだが、苦もなく改宗を選択した末に名前もアジズ・ムハンマド・エフンディ(「エフンディ」は貴族の称号)というイスラム名に改名している。彼に続いて大勢の弟子も改宗を受け入れた。救世主のイスラム教への改宗という出来事はユダヤ人社会に計り知れない衝撃を与えた。一方、メシアとされた人物の改宗という世相の混乱を踏まえ、東欧ではユダヤ人自らによってカバラの修学に一定の制限が設けられるようになった。シャブタイ・ツヴィは以降はイスラム教徒として、追放先のアルバニアで死んだ。50歳であった。
経歴
幼少年時代

シャブタイ・ツヴィは西暦1626年7月1日(ユダヤ暦5386年アーブの月の9日)の安息日にイズミールにて生を受けた[1]。彼の父モルデカイ・ツヴィは鶏肉、鶏卵の商人としてヨーロッパでの販売網を押さえて財を成した人物で、ロマニオットが出自であると見られている。息子に「シャブタイ」(????)という名前を与えたのは、彼が安息日(???:シャバット)に生まれた子供だったからであり、それはユダヤ人社会の慣例に基づいたものである。

少年期(あるいは青年期)のこと、彼は何者かによって性的虐待を受けた[2]ようで、このとき負った心的外傷が彼の生涯に暗い影を落とすことになる。彼は性に対して異常に臆病で、恐怖心さえも抱いていたような節がある。判然としないのだが、彼の男性器虐待の後遺症から機能不全に陥ったとされている(やけどを負ったというのが一般的な説である)。彼は結婚生活の失敗を二度も経験しているのだが、その理由としてしばしば性生活の不調が挙げられている。
青年時代

少年時代よりエン・ソフ(カバラにおける神の概念)やセフィロト(カバラでは全宇宙の縮図、あるいは「善の領域」とされている)といったカバラの概念に馴染んでいたツヴィは、ラビ・ヨセフ・エスカパ(1572年 - 1662年)やラビ・イツハク・デ・アルボといったイズミールの著名なラビの手ほどきでユダヤ教の教育を受けた。エスカパからは「ハハム」(賢者)の称号が与えられ、若くしてイズミールの賢者のひとりに数えられるようになった。ツヴィはまもなく20歳になろうとするころから隠遁生活をはじめ、カバラと神秘主義に没頭しつつ禁欲的な生活を送った。彼は20代の前半に2度結婚しているのだが、性生活を敬遠したため2度とも離婚せざるを得なかったという。イズミールでは極度の敬虔主義と禁欲主義が引き起こした不幸と見なされ、離婚ゆえに評判を落とすことはなかった。ただし、このころより奇行や錯乱が目立つようになり、彼自身もそれに悩まされていた。当時のツヴィを記録したいくつかの資料からは、重度の双極性障害(躁うつ病)を患っていたことがうかがえる。彼に襲い掛かる躁うつの波は激しく、精神的に高揚しているときは興奮のあまりに平静を失って奇行に走り、たとえば、公衆の面前で預言状態(憑依状態)に陥り、あたかも救世主であるかのごとく謎めいた言葉を発するなどして聴衆の度肝を抜いていた。ところが鬱状態になると隠遁生活がはじまり、決して人前に姿を見せようとしなかった。

ツヴィは若くしてカバラに熟達していたものの、当時もっとも権威があったラビ・モーシェ・コルドベロ1522年 - 1570年)の著作や、カバリストの間だけでなく一般大衆からも支持を得るようになっていたラビ・イツハク・ルリア1534年 - 1572年)の著作にはあまり興味を示さず、むしろ『ゾハル』や『セフェル・ハ=カナー』、『セフェル・ハ=ペリアー』といったカバラの古典を愛読していた。ルリアの著書に関しては、その巨視的なカバラを嫌う傾向があった。彼はこの時期に自らの急進的なカバラのおおよその骨格を形作っていたのだが、それは異なるふたつの神聖、かつ本質的な命題を礎に据えていた。ひとつはアビラー・レシェマー(神聖護持のために罪を犯すこと)の義務で、これにより早急に必要とされる世界のティクン(本来あるべき姿に修復すること)が果たされるとした。もうひとつは、伝統的にハラハーによって定められていたいくつもの禁制が世界の修復の暁には解禁されるという約束であった。ただしツヴィは、自らのカバラが当時の有力なラビには到底祝福されるものではないことを冷静に受け止めていたため、数年間はごく親しい弟子以外に教えることはなかった。

1648年6月11日(ユダヤ暦5408年シヴァンの月の21日)、ツヴィはその後の人生を激変させることになる出来事を体験をする。それは、幻の中で自らが救世主であるという預言を受けるというものであった。その預言を口外することにいささかもためらいがなかったツヴィは、同時に数々の奇行を意図的に行うようにもなった。とくに際立っていたのが、ハラハーによって声に出すことが厳禁され、「アドナイ」と代読されている神の名前「????」(神聖四文字)をみだりに口にすることであった。この行為は、救世主が到来する日には神の名は正確に発音されるという旨が『バビロニア・タルムード』(マセヘト・ペサヒーム 50.1)に記されていることに触発されたものとされている。もちろんツヴィは、自分が救世主であることを信じて疑わなかったため、この涜神行為は救世主到来の証として打って出たパフォーマンスである。なお、ツヴィが幻を見たとされるシヴァンの月の21日はシャブタイ派では祝日と定められ、興隆期には盛大に祝福されていた。

ツヴィの急進的な活動は、もちろんイズミールのラビの目には狂人の戯れごととしか映らなかった。ツヴィは救世主を自称するようになってから2年間はイズミールにとどまり、弟子や信奉者たちと共にカバラの探究に努めながら懺悔と沐浴の日々に明け暮れていた。この間、彼は再びトラウマを抱えることになる出来事に遭遇している。イズミールの海岸にて沐浴を行っている最中に竜巻に巻き込まれ、九死に一生を得たのである。彼が命を取り留めた日はキスレヴの月の16日だったのだが、この日もシャブタイ派では祝日に定められていた。

この2年間にツヴィの奇行は過激化の一途をたどり、目に余るまでに悪質なものとなっていた。ある日のこと、彼は弟子を引き連れてイズミール近郊の丘に上り、ヌンの子ヨシュアよろしく太陽の運行を止めようとしたのであった[3]。この醜態を聞くに及んで、とうとうイズミールのラビたちも堪忍袋の緒が切れてしまい、ラビ・ヨセフ・エスカパとアロン・ベン・イツハク・ラパパ(1590年 - 1674年)を筆頭にツヴィを排斥する運動がはじまった。こうして、期日は定かでないのだが1651年から1654年の間のいずれかの時期にツヴィは故郷のイズミールから追放されてしまった。
放浪時代

故郷を追放されたツヴィが最初に向かった先はテッサロニキであった[4]。彼はこの地で大勢の弟子と信者を獲得したものの、いつもの奇行を控えることはできなかったようである。ある日のこと、彼は自分のために結婚の儀を催したのだが、その作法はハラハーに則ったものではなく、さも預言書などに書かれた救世主の到来のごとく、自らを律法(モーセ五書)の主人と見立て、律法との婚姻関係を企図したものなのであった。このパフォーマンスに関して、テッサロニキのユダヤ人社会からは激しい非難の声が上がったため、ツヴィは当地のラビの前で公式に謝罪をする羽目になった。ただし、この謝罪が彼の地位を回復させることはなく、結局はイズミールのときと同様にテッサロニキからも追放されてしまった。

それ以降の数年間、ツヴィはギリシア地方の各都市を転々としていたのだが、1658年になると信者の一団と共にコンスタンティノープルに現れた。ここでも巨大な魚を乗せた乳母車を押して町中を歩きながら市民にカバラの議論を吹きかけるなど、奇抜な行動で物議を醸すことになった。ある日のこと、たった一日でユダヤ教の三大祭(過越祭シャブオット仮庵祭)を開催したことがある。その日、ツヴィは仮庵の下に座りながら過越しの晩餐を催し、食後になるとティクン・レール・シャブオット(シャブオットの夜に定められた学習内容)を読み聞かせていた。もちろんこの行為は、ユダヤ教の伝統に対する挑発、冒涜に他ならなかった。この時期のツヴィには、ハラハーに対する違反を犯す自らをあべこべに祝福して喜ぶ傾向があり、そのさいはベレホト・ハ=シャホル(早朝の祝福)のごとく「戒律の解禁に祝福あれ」と叫んでいた。これも、救世主が到来する日にはハラハーによる禁止事項が無効になるというミドラシュの記述に由来している。こういった醜聞を短期間のうちに撒き散らした末、ツヴィは追われるようにコンスタンティノープルを後にして故郷のイズミールに戻った。

イズミールに戻ってからのツヴィは深刻な鬱状態に陥っていたようである。世間体を憂慮した兄弟たちは、当面の生活費を援助した上で彼をパレスティナの地へ送り出すことにした。1662年、ツヴィはロドス島エジプトを経由してパレスティナへと向かった。エジプトでは財務大臣の要職にあったユダヤ人、ジェレビ・ラファエル・ヨセフ(「ジェレビ」はエジプト在留ユダヤ人の頭領に与えられる称号)が彼に魅了され、有力な支援者のひとりとなった。

エジプトに滞在中のこと、ツヴィの耳にリヴォルノ在住のサラという名前の風変わりな女性についての噂が届いた。


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