シャフルバラーズ
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シャフルバラーズ(Shahrbaraz)
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イランと非イランの諸王の王

在位630年4月27日 - 630年6月9日

死去630年6月9日
クテシフォン(テーシフォーン)
配偶者Mirhran
子女ニケタス(英語版)
シャープール5世
家名ミフラーン家
宗教ゾロアスター教
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シャフルバラーズ、またはシャフルヴァラーズ(Shahrbaraz、Shahrvaraz、630年6月9日死去、在位:630年4月27日-630年6月9日)は、サーサーン朝の将軍であり、後に簒奪によって王となった人物。彼はホスロー2世(在位:590年-628年)の配下の軍司令官(スパーフベド)として歴史に登場し、後には東ローマ帝国とサーサーン朝の戦争における主要な将軍の一人として、更に後には反逆者として歴史上大きな役割を果たした。サーサーン朝の敗戦とホスロー2世死後の混乱の中で、シャフルバラーズはアルダシール3世を殺害して王位を簒奪し、そして即位の40日後に別のサーサーン朝の貴族によって殺害された。彼の名前シャフルバラーズは実際には名誉称号であり、「帝国のイノシシ」を意味する。イノシシはゾロアスター教のヤザタワフラーム(ウルスラグナ)に結びついた動物であり、勝利の象徴であった。

なお、シャフルバラーズの即位年または死亡年を629年とする出典も存在するが[1]、中東史研究者のパヴァーナ・プルシャリアーティー(Parvaneh Pourshariati)やマリア・ブロシウス(Maria Brosius)の書籍をはじめ、多くの場合彼の即位・死亡は630年のこととされているため[2]、本記事ではそれを前提として記述する。
名前

シャフルワラーズ(Shahrwar?z、碑文パフラヴィー文字(英語版):???????)は中世ペルシア語のshahr(土地、国土)とペルシア神話において勝利を象徴するwar?z(イノシシ)という語から作られた名前である。この語は新ペルシア語ではシャフルバラーズ(Shahrbar?z、???????)となった。

アルメニア語の史料では、かれはしばしばKhoream(これはFarrukh?nに対応する)という名で言及され、Razmyozan(Razmiozan、Erazmiozan、Razmayuzanとも綴られる)という称号を持っている[3][4]。この称号はまた、Rasmiozdan、Rasmiozan(グルジア語)、rsmysa(アラビア語: ??????‎、読み方は不明瞭である)、R?m?z?n、R?m?z?n、Rumb?z?n(アル=タバリー『諸使徒と諸王の歴史(英語版)[3])という形でも記録されている。
生い立ち

シャフルバラーズはサーサーン朝で大きな影響力を持った貴族、ミフラーン家に属しており[5]、アルダシールという名前の人物の息子であった。後半生において、彼はサーサーン朝の軍隊(英語版)に加わって高い地位に登り、そして南(N?mr?z)のスパーフベド(軍司令官)に任命された。彼はサーサーン朝の王ホスロー2世の姉妹Mirhranと結婚し、彼らの間にはシャープールと名付けられた男の子が一人誕生した[6]。シャフルバラーズにはニケタス(英語版)と呼ばれる別の息子もいた。彼がシャープールと同じ母親から生まれたかどうかはわからない。
ビザンツ帝国との戦争「東ローマ帝国とサーサーン朝の戦争 (602年-628年)」も参照

ホスロー2世は即位時にビザンツ皇帝マウリキウスに支援を受けた見返りとして591年にアルメニアの大部分とメソポタミア、そしてイベリア王国の西半分をビザンツ帝国に譲渡していた。ビザンツ帝国でマウリキウスが殺害されると、ホスロー2世はその報復を名目として602年にビザンツ帝国との戦端(英語版)を開いた。この戦争は両帝国の間で行われた戦争の中で最後、かつ最も破壊的なもので26年間に渡って続いた。シャフルバラーズはこの戦争の中で初めて記録に登場する。ホスロー2世はシャフルバラーズとやシャーヒーンなどの将軍たちと共にダラ(英語版)とエデッサを604年に征服した。北方では591年の国境(英語版)までビザンツ帝国を後退させた。失われた領土を再征服した後、ホスロー2世は戦場から引き揚げ軍事作戦は将軍たちに引き継いだ。シャフルバラーズはこの将軍たちの1人であった。610年、アルメニア人[7]ヘラクレイオスはビザンツ皇帝フォカスに対して反乱を起こしてこれを殺害し、自らビザンツ帝国の帝位に就いた[8]ビザンツ皇帝となった後、彼は613年にアンティオキアの近郊でサーサーン朝に対する本格的な反撃の準備を行ったが、シャフルバラーズはこれを決定的に打ち破りビザンツ軍に重大な損害を与えた(英語版)。そしてこの都市を占領し[9]地中海にサーサーン朝の海軍を展開可能とした。611年から624年にかけてのシリアアナトリア、アルメニア(英語版)、そしてメソポタミアにおける行軍図。

ビザンツ帝国軍がアンティオキア近郊で撃破された後、ヘラクレイオスとテオドロス(英語版)は将軍ニケタス(英語版)と共に、彼らの軍勢をシリアで合流させたが、これもシャフルバラーズと彼の軍勢によって撃破された。そしてダマスカスが包囲占領され、多数のビザンツ兵が捕虜となった[10]。更にシャフルバラーズは、ビザンツ軍をAdhri'at(ダルアー)近郊でも打ち破った。このことはクルアーン(コーラン)で言及されている[11]。シャフルバラーズの経歴の中で最も重要な出来事は、彼がサーサーン朝の軍隊をパレスチナ(英語版)へ向け、包囲戦の後にキリスト教徒の聖地エルサレムを占領したことである。エルサレム征服の後、彼は聖十字架(真の十字架)を戦利品として運び去った。618年、シャフルバラーズはホスロー2世にエジプト攻略を命ぜられ、619年にビザンツ領エジプト(英語版)の首都アレクサンドリアを占領し、サーサーン朝の物とした[12][13][注釈 1]

アレクサンドリア陥落の後、シャフルバラーズとその軍隊はサーサーン朝の支配地をナイル川に沿って南に広げた[15]。621年までに属州(英語版)に安定したサーサーン朝の支配が確立され、Shahralanyozan(Shahr?l?ny?z?n)と呼ばれる人物がエジプトの総督として赴任した[16]。622年、ヘラクレイオスはサーサーン朝に対する反撃をアナトリアで開始した。シャフルバラーズはこれに対抗するために現地へ派遣されたが、最終的に敗退した[17]

ヘラクレイオスは勝利の後カフカス・アルバニアへと進みそこで越冬した[18]。シャフルバラーズはシャーヒーンおよびShahraplakanと共にヘラクレイオスの軍勢を掣肘するためにホスロー2世によって派遣された[19]。シャーヒーンはビザンツ軍を潰走させることに成功した。サーサーン朝の将軍たちの間の嫉妬故に、シャフルバラーズは勝利の栄光の分け前にあずかるために行軍を急がせた。ヘラクレイオスはティグラノケルタで彼らに相対し、Shahraplakanとシャーヒーンの軍勢を各個に撃破した。この勝利の後、ヘラクレイオスはアラス川を渡り、対岸の平野で野営した。シャーヒーンは自身とShahraplakanの残存兵力と共にヘラクレイオスへと向かうシャフルバラーズに合流したが、沼沢地によって彼らの行軍速度は鈍った[20][21]。Aliovitの地で、シャフルバラーズは彼の軍を分散させ、6,000人の兵をヘラクレイオスを待ち伏せるために送り、残りの部隊はAliovitに留まらせた。ヘラクレイオスは625年2月にサーサーン朝の主力キャンプに夜間奇襲を行いこれを破壊した。


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