シャフリサブス歴史地区
(ウズベキスタン)
コク・グンバッズ・モスク(ウルグ・ベクの金曜モスク)
英名Historic Centre of Shakhrisyabz
仏名Centre historique de Shakhrisyabz
登録区分文化遺産
登録基準(3), (4)
登録年2000年
危機遺産2016年 -
公式サイト世界遺産センター
シャフリサブス(ウズベク語:Shahrisabz/Ша?рисабз)は、ウズベキスタンの都市。シャフリサーブス、シャフリサーブズとも表記する[1]。カシュカダリヤ州に属する。サマルカンドの南約80kmに位置する人口約53,000人の町である。高度はおよそ622mある。かつては、中央アジアにおける主要都市だった歴史を誇り、今日では、14世紀にトルキスタンを席巻したティムールが誕生した場所として知られる。町の名前は、ペルシア語: ??? ???, シャフレ・サブズ(緑の町の意)に由来する。語源については諸説存在するが、街を中心に広がるオアシスが緑にあふれていた様子に由来する説が有力である[2]。
2000年に、15世紀のティムール朝時代に建築された建物の現存する地区がユネスコの世界遺産に登録された。 かつてシャフリサブスは現在のキタブ付近に存在していたが、13世紀から14世紀の間に市域が移動して現在の位置に移った[3]。 もともとは「心休まる場所」という意味のケシュ、キシュ (Kesh) という名前で知られていた町であり、古代のシャフリサブスは、中央アジアの都市の中でも最古の歴史を持つ。アレクサンドロス3世の攻撃を受けたアケメネス朝は、この地で終焉を迎えた。アレクサンドロスは将軍プトレマイオスをバクトリア地方のサトラップに任じ、紀元前328年から327年の冬にかけて、アレクサンドロスはシャフリサブスに滞在して妻ロクサネ(ロザンナ、ロクサナ)を娶った。 キシュは中央アジアのイスラム化以前からソグディアナの都市として知られており[4]、隋唐代の中国の史料に書かれている昭武九姓の1つ史国は、この地に興った都市国家である。玄奘三蔵の『大唐西域記』には羯霜那国(サンスクリット名Kusanaの音訳)の名で登場した[4]。他にKeshの音訳の羯石国、竭石国、可石国、乞史国などとも書かれた[4][5]。イスラム化が進んだ9世紀、10世紀に至ってもキシュは中心都市の地位を保つが、サマルカンドとブハラの発展に伴って衰退が始まる[4]。 現在の町の名であるシャフリサブスの呼称が最初に確認されるのは、1351年にチャガタイ・ハン国で鋳造された銀貨である[6]。そして14世紀末、ティムール朝の時代にシャフリサブスは歴史の表舞台に再び現れる[4]。 ティムール朝の建国者であるティムールは、1336年4月9日にシャフリサブス近郊の村で誕生した[7]。1379年にティムールが征服したホラズム地方の学者、職人たちは家族ごとシャフリサブスに移住させられ[8]、1381年にティムールが征服したクルト朝の首都ヘラートの住民と城門がシャフリサブスに移される[9]。シャフリサブスは中央アジアの文化都市に発展し、「クッバトゥル・イリム・ワル・アダブ(学問と道徳のドーム)」の称号が冠せられた[10]。 1380年よりアク・サライ宮殿の建築が開始され[11]、ティムール朝のアミール(貴族)や高官たちによって、マドラサ(学院)、僧院、宿泊所、貯水槽が町の内部と周辺地域に建てられた。ティムールはシャフリサブスを自らの故郷と考え、ここに自らの墓を建設することを計画した[12]。ティムールは建国当初シャフリサブスを首都に定めることを考えたが、立地と冬季の交通の便の悪さのため、サマルカンドを首都に据えた[13]。
歴史